ICU在学生:デイヴィッド・ジェフリース【CGS News Letter001掲載】
アメリカ・マサチューセッツ州ウェルズリー大学教授でありフェミニスト政治学者であるキャサリン・ムーンさんが2003年12月18日、ICUにてジェンダーとナショナリズムの関係について講演を行った。私は講演の中で見た、韓国の米軍基地周辺の売春問題に関するドキュメンタリーに大きな衝撃を受けた。軍隊という構造的な抑圧が、地域社会の内部に結束のみならずどのように分断をもたらすのか。男であり、アフリカ系アメリカ人である私の立場はこの問題とどう関連づけられるのか。日本という外国で暮らしている自分は社会にどのような変化を与えることが出来るのか。私はこれからも「個人的なこと」を「政治的なこと」として考えていきたい。
基地売買春という言葉が教室全体に響き渡った。戦争や暴力の映像を通し、若い兵士と女性たちについて考えられるイメージの数々。韓国における「基地売買春」についてのキャサリン・ムーン教授の講義を聞くにつれ、私はさらに想像を膨らませ、現在のイラク情勢を心に描きはじめた。兵士たちになにが起きているのか、その国ではなにが起きているのかという私の二次元的な疑問は、女性、特にイラクの独身女性の視点からみたときこの問題はどういった問題として現れるのだろうかということに考えはじめた時、屈折してさらに深まり、私は、こういったこの女性の側からの観点についてについてまだ聞いたことも本で読んだこともなかったことに突然気づいた。そして、兵士としての戦地に赴いたことのない男性である私の想像力の及ばないところで、女性と戦争という空間において何が論じられているのかというように思いを巡らしはじめた。私がどこまで理解できるかは別として、イラクで、韓国で、日本で、あるいは私が生まれた国アメリカで、女性と売買春を考えたとき、一体どのようなことが起こっているのだろうか?また売買春が軍事的なものにどのように関係しているかということに関して、私が無知であるという事実は、女性に関する問題を重要視し、2004年という時点で自らをフェミニストと呼ぶ男性である私の自信を打ち砕いた。そればかりか、ムーン教授の講義のなかで自分が男性としてもつ特権を再認識させられた。この特権は私が、彼女たちのような女性たちの語りを聞き過ごすことを可能とした。この女性たちの声はある意味で私自身の人生に関係する様々な物語をもまとめあげている。結局、これらの女性はみんな女性として、売春婦として、国民として、そして母親として世界を私と共有し、私の母や妹が私にとってそうであるように、彼女らもまた、誰かの家族の一員なのである彼女たちも、私も、私が特に忘れがちな国際社会というコミュニティに属している。私がこのような女性たちと実際に空間を共有しているという事実、そして、それゆえに私も基地売買春をめぐるこれらの問題に関与しなければならない、という事実が講義によって思い起こされた。
突然ではあったが、私と女性の間に国際的な共有関係が存在しているという事に強く気づいたのは、ムーン教授の講義の途中でVTRをみている最中だった。韓国女性たちが、黒人GIに気に入られるために髪の毛にパーマをかけているという映像は衝撃的であった。また、そういった韓国女性と黒人GIの間に生まれた子供たちが、韓国の歌を歌い、韓国米軍基地ではない英語圏の社会を思い浮かべ、まだ見たことの無い想像の中の父親の絵を得意げに描くというような映像の数々、これらは講演会以来ずっと私の頭から離れない。これらのイメージに、私は今長い間向き合わざるを得ないでいた真実を結びつけた。すなわち、私が男であり、それゆえにアジア、ヨーロッパに限らないどの社会においても、真の意味で彼女たちと経験を共にしながら女性の正当な扱いに対して貢献するということはできないという真実である。この意味で、私は常に部外者なのである。しかしこの事実ともに、私はもう一つの真実を付け加える。つまり、アフリカ系アメリカ人であり、黒人の男性であり、そして自分と違う肌の色の女性を母親としてもつ一人息子ということである。アフリカ系アメリカ人としての私に対して歴史は、世界的に展開し、かつアジア的であり、かつ韓国的でもある黒人社会について知らせることを怠って来た。このような情報の欠落ゆえに、私は、必ずしも、それほど部外にいるわけではないのに、部外者(おそらくこの場合においては韓国人にとっての部外者)であるかのように感じることを許されている。私は、スクリーン上の肌の黒い韓国人の子供たちを見つめていて、同時に距離感と親近感を覚えた。黒人として育つということがどういうことであるかを個人的に理解しているからだ。そのうえ、私はまた、自分の母を見るということについても彼等に感じる親近感を関連づけた。というのも、私の母は、私と見た目が似ていないにもかかわらず私の多くを共有し、かつ私はこの母と私の関係に真実が存在していることを知っているのだ。このような差異への関連性にも関わらず、黒人であり、かつアメリカで育った私は、時間をかけて自分を疎外し、他の周辺領域から目を背け、見なれない顔を見いだす事を恐れて来た。しかし、そのような違いを認めつつ、ムーンさんのVTRを見ながら、私は彼等の中に韓国特有のもの、黒人特有のもの両方を見いだし、それほど異質ではないものを感じ取った。そしてこのような感情に満足するだけでなく、彼等のような子供やその母親についてのディスカッションにもっと積極的に参加して、基地売買春そのものが何であり、その影響は一体なんであるかについてもっと理解しようと決心した。けれど一体どうしたらこの基地売買春というものを根本的に理解することができるのだろうか。講義の中で、ムーンさんは基地売買春に関して、この用語を私が理解する手助けとなるようなことを述べた。ムーンさん曰く、売買春というものは、決して偶発的に引き起こされる現象でもない、まして事故でもない。売買春は、逆に、一つの高度に管理された政治経済システムである社会的過程である。
講義の最初の20分間、「基地売買春」という言葉が頭の中で反響しているのを聞いて、それを一つのシステムであるという発想に結び付けるということは、私にとってどうしても理解しがたいものとして襲いかかって来た。どのようにしたら、「基地」と「売買春」という二つの言葉が一つになり、そしてシステムとなりうるのだろうか。なぜ、その二つがくっついて一つの用語とされた時に私はその二つを並列したものとして感じる事ができるのだろうか。やがて、私は徐々にその二つの間に関連性を見いだしはじめた。一貫した考え方が見えてきたのだ。システムとはなんらかの機能を実現するものである。軍事的システム、特定の地域における国家的影響力を維持させるという機能を実現するものである。また、この場合の売買春はまた、女性を対象化することを介して、もっぱら男性である消費者を肉体的に「満足させる」という機能を実現する。さらに、この軍事的システムによって兵士たちは、国民感情と強く結び付けつつ、また、その国民感情を共有しない者たちから排除するというアイデンティティを獲得する事を可能となる。同様に、売春婦たちにとっても、彼等の職業ゆえに、公的には非難されつつも、国家には許容されているという私的な領域に自分達を結び付けるとともにそこから排除するコミュニティ得るのである。
さらに、軍事システムと、システムとしての売買春のどちらも身体を機械として利用することでそのシステムを成立させている。これらの身体に宿る個人は、どちらのシステムにとっても主要な関心事ではない。彼等の身体が兵士として、あるいは売春婦としての役割を果たし、いわゆる「サービス」機能が実現されている機能している限りこれらシステムは維持され得る。このようにシステムが持続してゆくことこそが基地売買春の顧客にとっての最も重要な関心事であるとムーン教授は説明する。
ゆえに、軍事システムと売買春システムの総合によって二つの結果が生じる。一つの結果においては、売春婦が軍事化される、他の結果においては兵士たちが売春婦化される。女性の身体売買に依存し成り立っている経済は、これらの基地内に居住してそこで働く女性たちに国家主義を押しつけ、さらに彼女らに対して、自分達の家族に対する、駐留兵士の快楽の対象であるという職業を遂行という国家義務感を伝える。このようなレトリックによって、売春婦は兵士となることを強いられ、自分達の家族を養うために、生存のための感情を押し殺させられる。同様に、兵士たちは軍事システムによって積極的な売買の対象とされ、男らしさと国家主義を築き上げる源泉としての他者を抑圧できるようになることについてもたらされる長期的な影響についてなんら説明をされないままである。彼等自身がもはや売春婦であり、つまり彼等らもまた、彼等と同じ機能を実現に共同体においては存在しないという押しつけの前提に基づいて生き延びるのである。結果として、彼等は自分達を孤立化し、いかにうまく自らの身体を操って生き残るか、そしてかれらの男らしさを証明するためにどのようにして他者の身体を制御するか(例えば売買春のように)ということでアイデンティティを確立する。
キャサリン・ムーン教授の講義が私たちに思い起こさせることは、全てのシステムが、社会が人々を受け入れる際の媒介となるアイデンティティを人々が維持するというプロセスに依拠しているということである。それほど難しく考えなくても、このような社会的システムの外側を指向する人々が途方にくれがちであるということを理解することは容易である。従って、今回のキャサリン・ムーン教授の講義をクラス・ディスカッションの出発点として利用することによって、ジェンダーが男らしさと女らしさという両極端な基準のうえにある枠組みの外に私たちは存在しないということを示す支配的なイメージを利用することによって、体系的に保持されている意味を検討することが必要である。しかしここで、心にとめなければならないことは、これらの枠組みの外にこそ私たちは存在しているのだということである。さもなければ、この枠組みの外側をみることすらもできないであろう。さらにまた、私たちがこの枠組みも変更し、新しいシステムを作る力をもっているということは疑ってはいけない。だからこそ、この講義の中で、そして日常生活のなかでジェンダーを脱構築するだけでなく、私たちの特権と相互関係を、様々な人々の共存する"ローカルでグローバルな"共同体のなかにある基地売買春という問題の解決のための手段として利用してゆくべきである。