014号の最近のブログ記事

nl14image.jpg
CGSニューズレター 014号が完成しました。
CGSなどでペーパー版を配布しているほか、以下のURLより、pdf版がダウンロードできます。是非ご覧下さい。
なおペーパー版・pdf版に収録されている記事は、要約の場合があります。記事全文は、以下の目次から各記事のエントリーをご覧下さい。

CGSニューズレター 014号をダウンロード

CGSニューズレター 014号目次(各記事のエントリーにリンクしています。クリックしてご覧下さい。)

CGS センター長/国際基督教大学 上級准教授:加藤恵津子
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
20110601_SAWs.jpg
 2011 年度春、CGS は、新入生歓迎企画として全3 回の「セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズ」を開催しました。「セルフ=アウェアネス」とは日本では耳慣れない言葉ですが、直訳すれば「自分に気づいている状態」。自己の存在と、そのかけがえのなさに気づいていることを意味します。
 「自意識が高い」という日本語には、いまだに否定的・批判的な含みがあります。最近では育児書やビジネス書に「自信力を育てる」などの表現が見られるとはいえ、成人が、自分が自分だというだけで自分を大切に、誇りに思うよう奨励される機会は、日本では少ないように思います。これは日本を含むいくつかの文化圏における「自己」の捉え方の特徴から来ていると考えられます。
 ある文化心理学の研究によれば、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ・南欧の人々は、自己を家族や友人などとの関係で規定する、つまり自己を周囲の人との「相互依存的」イメージで捉えるといいます。これと対照的なのが、周囲の人々や状況がどうであっても、自分が何者であるかは常に変わらず一貫しているという、北米や西欧の人々の「独立的な」自己観です。
 「相互依存的な自己」観は、他者への思いやり、争いの回避など、多くの良きものへとつながります。しかし同時に、不快・苦痛があっても改善の努力をせず、結果としてトラブルに加担する場合もあります。たとえば、「自分はその気も準備もないが、パートナーからセックスを求められ応じる」ほか、「夜道で知らない人に道を聞かれ、無視すると悪いので対応する」「教師や先輩に二人きりで飲みに行こうと言われ、嫌だがついて行く」といった行為は、「思いやりのある人」が陥りやすいトラブルへの入口です。
 このような自分の弱点に気づいていること。他者からのまなざしや評価よりも、まずは自分自身が大事だと認識していること。自分には自分を守れる力や知識があると知っていること。これらの「自意識」が私たちを守ると信じ、毎月異なるアプローチを企画しました。4 月はNPO 法人ぷれいす東京代表の池上千寿子氏に高校までの性教育が取りこぼしていた性に関する知識を、5 月は本学英文学准教授のC. サイモンズ氏にゴシン(護身・護心)のスキルを、6 月は広島大学の北仲千里氏に被害者にも加害者にもならないためのキャンパス・ハラスメント防止策を講じていただきました。いずれも最新の情報に基づく実践的なワークショップでした。来年はさらに充実した「自己との出会い」を企画したいと願っています。

国際基督教大学 学部生
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
20110412_SAW01a.jpgp02_photo.jpg
 2011年4月25日、性科学者でありNPO法人ぷれいす東京の代表を務める池上千寿子さんによる講演会「今なら聞ける! 性のジョーシキ・非ジョーシキ」が、セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズの第一弾として開かれた。5問のクイズを元に、避妊・性病・セックス・性差など、多岐にわたる話を池上さんがレクチャーした。
 レクチャーの中で興味深かった点として、自分の身を自分で守るためにコミュニケーションすることの意義を強調したことが挙げられる。池上さんは避妊や性病の問題は信憑性の低い知識が多いため個々人が持っている「正しい」知識の間に齟齬が生まれやすく、知識と行動が結びつきづらいという難しさがあることを指摘した。これらの問題の解決策として必要なことは、たとえ話しにくい内容であっても、自分の身を守るためにカップル間でコミュニケーションをしていくことであり、そのような関係を築けるのが良いカップルなのだという。つまり、自分の身を自分で守るためには、避妊具だけではなく、コミュニケーションを通して避妊や性病の予防を自ら行うことが重要なのである。
 また、セックスの定義を見直すきっかけが得られた点も興味深かった。一般的に「セックス」として捉えられるものはPenetrating(挿入)と射精の二要素を含む行為のみであり、極めて限定的だ。しかしこの講演会では、スキンシップという「快」の最も根本的な行動をセックスの定義として捉えるNon-penetrating sexの可能性が主張された。受講者の中には困惑し、質疑応答の時間に直接疑問をぶつける人もいた一方、「セックス」という概念がもつ挿入の恐怖や射精の強制感から自由になったという人も見られた。多くの受講生がセックス、ひいては性について考えるきっかけとなったこの話題には、さまざまな反応があったが、これらの反応は、いかに性の領域に思考のメスが入れられていないかを示すものだと感じた。
 私がこのレクチャーに参加した理由にはいくつかあるが、告知にあった「『受験や学業・就活がまず重要!』と、性について考えることを後回しにしていませんか?」という言葉が、セクシュアル・マイノリティである私の現在の立場に合致していたことが理由のひとつだ。今回は特に異性愛の女性をターゲットにしたレクチャーだったように感じたので、セクシュアル・マイノリティに関する情報をもっと聞いてみたかったというのが正直な気持ちではある。しかし、池上さんの主張された、正しい知識に基づいて自分の身を守ることや、性についての自分の固定観念を見直すことは、性的指向に限らず重要だと思う。私を含む大学生の多くは、性についてよく考えることもなく大学を卒業し、気がつくと「大人」と呼ばれる対象になっている。しかし、性についてあやふやな情報源から得た少ない情報しかもっていないため、「大人」の世界に飛び込んでいくことに対しては一種の恐怖を抱きがちだ。性病や妊娠のリスクを強調されることでさらに萎縮してしまうことも考えられるが、予防を強調することで伝えたいことは、セックスの恐さではなく、不安を取り去ることで得られる安心感ではないだろうか。それは、レクチャー後に池上さんが言われた「予防することでもっと気持ち良くなる」という言葉に表れていたように思う。

国際基督教大学 学部生 リラ・デント
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
20110419_SAW02a.jpg p03_photo.jpg
 2011年5月21日、CGSの運営委員で、ICUでは英文学指導でおなじみの C.サイモンズ准教授による『ゴシン術』のワークショップが行われた。会場の体育館には大きなエクササイズボールがいくつも転がっていて、「自己防衛のクラスに、ストレッチ運動は関係ないよね?」という疑問が浮かび、一瞬ピラティスのクラスにでも迷い込んだ気さえした。90分間のワークショップでは、様々な角度からの自己防衛術の知識の披露と、実地演習を通して楽しく学ぶことができた。
 何週間にもわたって指導教官に首を絞められたり、2リットルのペットボトルを相手にボクシングの真似事をさせられたりするアメリカの高校の自己防衛のクラスとは違い、サイモンズ先生のワークショップはまず、日常の問題的状況での「自覚がある」行動様式と「自覚がない」行動様式を比べるスキットから始まった。参加した学生達は、道ばたの不良のやじに悩まされたり、電車で痴漢に襲われる女性のスキットをみた後、自分達も演技をすることになった。グループに分かれ、怪しい人間が近づいて来たらどのように先手をとって身を守るかの練習を行った。こうした状況からうまく逃れるための手段は、そう難しいものではない。誰かが「自分の領域」(簡単に手が出せる距離内)に割り込んで来たと感じたらすぐにキッと目を合わせ、不安そうな姿勢を見せず、しっかりと足早に歩いて離れるのが基本である。
 それから話題はもう少し深刻な状況に移り、サイモンズ先生は一般市民が実際に誰かに襲われた場合、身を守るためにできること・すべきことを説明した。「何よりも『前向き』の思考にすることが大切です。まず、可能なら逃げることが一番です。逃げるのはカッコ悪いなどと思ってはいけません。でも、もし追いつめられたら、逆に前へ出て反撃する必要があります。本当に戦うのだから決して奇麗ごとではないですよ。ただ、自分の動きをいちいち考える必要はありません。」襲われる場面においても、最も効果的なのは、簡単で自然な動きである。向かい合って、相手の体の中心線から外れるように横に一歩ずれる。そして決め手となるのが「楔形」の動き。人間が驚いたり怖いものに面したときにでる、両手を三角形に揃えて体の前に上げて身を守ろうとする本能的な動きを、より意識的に、しっかりと狙いを付けるだけだが、誰にでも簡単にできるうえに、驚くほど効果がある。対人の演習に続いて、やっと例のエクササイズボールが登場した。飛びかかってくる大きなボールを「楔形」でたたき返すと、面白いように吹っ飛んでいく。体育館はボールの弾む音と皆の笑い声で一杯になる、ワークショップのハイライトだった。
 最後に参加者の一人が「特に日本のように、公の場での衝突を嫌う文化のある国に住む人にとって、有益なワークショップでした」とコメントしたように、充実した90分だった。『自己防衛ゴシン術』はカンフー映画に出てくるような豪快アクションとは限らず、「領域の自覚」や「前向きの思考」の観念や「楔形」の知識など、簡単なことを毎日の生活に取り入れることから始まるのだということを、皆を十分に楽しませながら教えて下さったサイモンズ教授に、厚く感謝の言葉を贈りたい。

CGS 所員/国際基督教大学 講師 上遠岳彦
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
20110601_SAW03.jpg
 2011年6月14日、セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズの第3回として、「加害者にも被害者にもならない! キャンパス・ハラスメント」と題して、広島大学ハラスメント相談室の北仲千里先生による講演会が、ICU人権委員会の協賛で開かれた。
 まず、セクシュアル・ハラスメント(以下SH)について、具体的な事例を含めて解説された。たとえば痴漢は、それを行った個人に責任が帰せられるのに対し、SHは、その背景に、教員と学生、上司と部下、就職面接での面接官と志願者など「対等でない力関係」が存在することが多く、問題解決の責任も、個人だけでなく、学校、会社、団体と言った組織の責任も問われる性質のものであることが整理して示された。また、しばしばSHと認識されにくいケースとして、同性間、あるいは学生同士などの同世代間で、"サークルの飲み会で性体験の話を強要される"などのケースも紹介された。SHを類型化すると、優位な地位を利用して主に1対1で起こる「対価型(地位利用型)」、職場で噂を広められるなどの1対複数で起こる「環境型」に分けることもできるというが、これも、SHの認識には役立つ。「環境型」では、その背景に女性や性的マイノリティーの方への社会的蔑視なども深く関わってくるだろう。
 講演では、職場、大学での、パワー・ハラスメント、アカデミック・ハラスメントにも触れられた。多くのSHケースは、その根底に対等でない権力関係が存在しているため、これらは、しばしば混在する。暴力的な行為や脅しなどの「分かり易い」ハラスメントだけでなく、精神的な追いつめなどのモラル・ハラスメント、メンタル・ハラスメントなどの事例を伺うと、だれでも経験するような事柄、例えば「厳しい指導」の延長線上に現れてくるもので、決して特殊な人が行うハラスメントだけではないことが分かる。とくに、加害者本人に加害意識が全くないケースも増えているということで、それぞれの立場で、ハラスメントに対する知識と感性が求められる。
 SHについて話題になるとき、「どこまでがSHになるの?」と聞かれることも多い。これは、「どこまでやったらSHになるか」という「心配・恐れ」があると共に、その奥に「SH(或いは犯罪)にならないところもまでならやってもよい、やりたい」という意識があるかもしれない。この問いに対して北仲先生は、SHを「地位や権限を濫用して被害者の性的自由(性的自己決定権)を侵害する行為」と定義し、「『どんな言葉や行為をしたらSHか』という発想ではなく、『どういう立場の人は、どんな場面では何をしてはならないか』『性的な言動を拒絶された後で、どんな嫌がらせをしたら問題か』というふうに考えるべき」と述べている。法律や一般論から考えるのでは無く、ケース毎に異なる個別の人間同士の関わりとして、一人一人が考えて行く必要があろう。
 最後に、被害を避けるには、まず知識を持ち、嫌なことがあったら早めに誰かに相談すること、そして、記録を付けておくこと、が大切であるということであった。個々人が 「すべての人を大事にする」精神を持って身近なハラスメントに声を上げて行くことが大切だが、そこに力関係が存在する以上、周囲の人の協力と、相談できるシステムの充実が求められる。

国際基督教大学 学部生 大久保徹朗
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
A3_20110210_hiv.jpgp05_photo.jpg
 2011年2月10日、CGSとの共催で「民族学地域研究」の授業の一環として「HIV/エイズを考える̶病の他者化への抵抗̶」と題されたセミナーが開催された。名古屋市立大学の新ヶ江章友さんは、文化人類学や疫学など、学術的な視点から、ぷれいす東京・JaNP+の桜井啓介さんは、HIV陽性の当事者として、また支援者でもあるご自身の経験から、日本におけるHIV/エイズの現状やそのイメージを語った。
 新ヶ江さんの講演では、HIV/エイズの感染拡大防止施策におけるゲイコミュニティの働きに焦点が当てられた。中でも従来の「上」から情報を与えて予防を促す「実践コミュニティ」に代わる、構成員それぞれが主体的に行動して情報を交換しあう「生社会コミュニティ」の可能性が紹介された。しかし、「コミュニティ」にどこまで可能性を見いだせるのか疑問もある。なぜなら、新ヶ江さん自身が述べた通り、情報技術の発展をうけ、同性愛者たちはゲイバーなどの対面式のコミュニティを介さず、インターネットを通じてダイレクトに出会うようになってきているからだ。MSM(Men who have Sex with Men)に対するHIV/エイズ予防啓発活動の手段として、より新しい方法も検討する必要があると感じた。
 桜井さんは「差別」や「病」という一見重苦しいテーマをコミカルに語っていて、思わず笑わされたが、同時に深く考えさせられもした。特に印象的だったのが「自分はHIVよりも睡眠時無呼吸症の方が重大なことなのに、他人になかなかわかってもらえない」という話だ。私も桜井さんの話を聞くまでは、現時点で根治不可能なHIVの方が当然、より「重大な」疾患だと感じていた。しかし、感染状況をコントロールできているHIVに対し、重症の睡眠時無呼吸症候群を治療しないまま放置した場合、8年後の生存率は60%程度だという。医学的・科学的な評価というのは一見ニュートラルで絶対的な考え方に思えるが、その全てがイメージや文化的な文脈と密接につながっているのだと改めて気付いた。
 今回の講演では、殆どMSMの文脈でHIV/エイズの問題が語られた。実際、「HIV/エイズはゲイの話」だと思っている人も多いと思う。確かに日本における累計HIV感染者12,623人のうち、同性間性的接触によるものは6,658人なのに対し、異性間性的接触によるものは3,838人である。両者の人口比率を考えれば、異性愛者が感染する確率は同性愛者/MSMに比べてかなり低いように思えるかもしれない。しかし、累計エイズ患者5,783人のうち、同性間性的接触によるものが1,923人なのに対し、異性間性的接触によるものは2,259人にのぼる。HIVに感染しても、早期に発見し適切な治療を行うことで、エイズの発症は防ぐことができる。このことを踏まえると、エイズ発症者に占める異性愛者の割合が、HIV感染者に占める異性愛者の割合よりも高いということは、異性愛者でHIV検査を積極的に受けている割合が相対的に低く、そのためにエイズ発症時にはじめてHIV感染が発覚するケースが多くなっているのが大きな要因の一つではないかと考えられる。「HIV/エイズはゲイの話」という考えの裏に「私たちには関係ない」という意識が隠れていませんか?

___________
参考文献
(公財)エイズ予防財団 2010年12月時点の累計HIV感染者数/累計エイズ患者数
http://api-net.jfap.or.jp/index.html
田辺繁治,2008,「今村『時間論』と生社会コミュニティ」『東京経大学会誌 経済学』259:260-248.

国際基督教大学 学部生 篠田 恵
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
20110425_A3_AGSwashitani.png p06_photo.jpg
 2011年5月20日、映画学・日本映画史を専門とする鷲谷花氏による講演会「日本映画史における《女性アクション》」が、CGSとpGSS基礎科目「ジェンダー研究へのアプローチ」の共催セミナーとして開催された。「男性のジャンル」とみなされてきたアクション映画において、女性アクションは家父長制の範疇内に留められると同時に、身体的な「女性性」を強調したエロティックな存在として描写される、という二面性が講演全体を通して提示された。
 講演ではまず、物語映画初期の雛型ストーリーが、「ヒーローによるヒロインの救出劇」であったことが指摘された。「正しい」暴力を行使する動的なヒーローと、ヒーローによって悪漢から救い出されるのを待つ静的なヒロインという構図は、今なお強力な物語の枠組みとなっている。物語映画におけるヒロインは欲望の視線の対象として構築され、ヒーローの男性的表象を成り立たせてきた。一方、昭和初期の時代劇には自己の意志に基づいて行動し、男を魅惑すると同時に打倒もする「ヴァンプ」と呼ばれる女性キャラクターが登場し、昭和後期には男装した美空ひばりによるちゃんばら映画が人気を博した。しかし「ヴァンプ」の能動性や攻撃性は「男を犠牲にする悪女」として描かれると同時に、男性的な視線の客体、エロティックな「見世物」として表象され、美空ひばりのアクションシーンもまた、それが「正当な」戦い/アクションとされるには男装して「男」へと変身しなければならなかった。
 1970年代以降の例では、映画において戦う女性が「去勢」されることは、家父長制が脅かされることへの恐怖を、予め取り除く機能があると指摘された。女性が主人公として活躍するように見える宮崎アニメにおいても、「もののけ姫」のエボシが腕を失うなど、戦う女性が身体機能の一部を失う、すなわち「去勢」の場面が設定されている。このような戦う女性に対する「去勢」は現実の社会にも通じている。例えば、働く女性が「女性の視点」から提言をするといった表現や、そのようなかたちで女性の美しさを称揚する表現は、活躍する女性が脅威にならないようあくまで労働市場の中心が男性であることを示す「去勢」として機能しているのではないだろうか。映画などの文化的メディアにおける表象が人々の認識枠組みに影響を与え、同時にその枠組みが表象に反映される、という相互作用を見てとることができた。
 講演の最後に、従来男性の領域であったアクションを女性が「ごっこ」として模倣することの可能性が提起された。「オリジナル」としての男性アクションの「コピー」として過小評価されてきた女性アクションは、まさにその模倣性において従来の男性的表象の素材を組み直し、新たな表現を作り出す可能性を切り拓くのである。しかしながら、女性アクション映画による「ごっこ」/模倣を抵抗の可能性として肯定的に捉える結論部分には疑問が残った。講演でも繰り返し指摘されたように、「コピー」としての女性アクションが男性アクションの「オリジナル」性を脅かさない限りにおいて、家父長的な構造は温存される。一方で、女性アクションを「正統」として中心に据えることもまた、「オリジナル」/「コピー」という構造自体を残してしまう。男性/女性、あるいは「オリジナル」/「コピー」といった二分法を揺るがすような模倣のあり方が期待されるのではないだろうか。

CGS研究所助手 pGSSサポート担当 安永達郎
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
 ジェンダー・セクシュアリティ研究プログラム(Program in Gender and Sexuality Studies:以下PGSS、ピグス)が創設された2005年当初、教養学部は6つの学科で構成されており、PGSSは学科間専攻プログラムの一つと位置付けられた。2008年度の教学改革によって学科を統合しメジャー制度を導入したことで、PGSSはプログラムから32あるメジャー(専攻分野)のひとつとなり、独自のメジャー表記としてpGSSを使っている。2010年度までにPGSS専攻でICUを卒業した学生は累計で22名である。しかしながら今年度はpGSS専攻で卒業研究を行う学生が12名に急増し、メジャー制度への移行によってpGSSがアクセスしやすい選択肢の一つとなっていることがうかがえる。学内におけるpGSSへの関心は、確実に高まってきているといえる。CGSはpGSSを魅力的なメジャーにすべく、その運営を支援しながら、pGSSを専攻する学生を様々な形でサポートしている。
 筆者自身、2008年にPGSSでICUを卒業した。現在はCGSでpGSSのサポート業務を担当しており、自身の経験をふまえながら、いかにしてICUの学生にジェンダー・セクシュアリティ研究の魅力を伝え、pGSSでの充実した学びを支援できるかについて日々模索している。pGSSでの学びが学生のその後の人生に対して提供できる価値をいかに伝えるかという重大な課題を乗り越えるには、pGSSをふたつのアプローチから価値付ける作業が必要となるだろう。
 第一に、職業生活とのレリバンスをポジティブに捉えるアプローチである。若年層の就業問題が日本社会の重大な課題として顕在化して以降、学校教育の職業に対するレリバンスを問い直そうとする議論も多く見られる。そういった状況においてCGSに課せられる重大な使命は、ミクロなレベルで学生に寄り添うことで、学生の就職を取り巻く日本の労働市場や職場で起きているポジティブな変化を捉え、ジェンダー・セクシュアリティ研究ならではの利点を広く伝えていくことであろう。多くの日本企業は男女共同参画への取組みに強い関心を示してはいるものの、依然として抜本的な成果をあげるケースは限定的である。pGSSを専攻しながら就職活動をする学生からは、面接で人事担当者がジェンダー研究に対して関心を示すケースもあるという話を耳にする。日本社会全体が男女共同参画に向けて変化する中で、pGSSを通して得た視点は企業の制度や組織作りに有益なものとして評価され得ると言えるだろう。
 第二に、ICUのリベラル・アーツ教育の本来的な理念からpGSSを評価するアプローチである。学問分野の垣根を超えた「教養教育重視型のカリキュラム」こそが、ICUのリベラル・アーツ教育の本来的な特徴である。そうした前提のもとに、ICUならではの学びのひとつとしてpGSSの価値を見出すことも重要であろう。つまり、職業生活も含むあらゆる社会生活に応用可能な、より抽象的なレベルでの思考能力や多角的な視野を養う為の学びとして価値付けることが必要である。あらゆる人々がジェンダーやセクシュアリティの構造と権力関係の中に置かれ、困難を抱えながらも適応や抵抗を繰り返しながら生きているという事実に意識的になることは、ひいては自分自身や他者に対するより深い理解と思いやりに繋がると筆者は感じている。社会集団の中で人々と向きあう根本的な能力をこそ、pGSSを含むリベラル・アーツ教育で養われるべきではないだろうか。筆者自身、ICUでの学びはそうした視点と思考能力を身に付けるひとつの訓練であったと感じている。そういった要素を十分に学生に伝えながら、ジェンダー・セクシュアリティに関する問題関心に引きつけてpGSSでの学びへと学生を導きサポートしていきたい。

________________
pGSSに関する詳細については、pGSSホームページをご覧下さい。
http://web.icu.ac.jp/gss/

一橋大学大学院 言語社会研究科 李杏理
【CGS Newsletter014掲載記事全文】※ペーパー版は以下記事のダイジェストです。
『女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジウム:「法廷」は何を裁き、何が変ったか~性暴力・民族差別・植民地主義~』に参加して

 日本軍「性奴隷」制という覆い隠された暴力の不法性を白日の下にさらし、サバイバーの尊厳とひとすじの正義を取り戻そうとした女性国際戦犯法廷(以下、法廷)から10年が経った。2010年12月5日、「女性国際戦犯法廷から10年・国際シンポジウム:「法廷」は何を裁き、何が変ったか~性暴力・民族差別・植民地主義~」が開催された。
女性国際戦犯法廷(日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷)とは、2000年12月に東京で開かれた民衆法廷である。元「慰安婦」の女性たちは、1990年代以降日本政府を相手取って、謝罪と賠償をもとめる裁判を起こした。だが訴えはすべて退けられ、国内の裁判闘争は頭打ちとなっていった。そんななか、この運動に携わる人たちのなかから女性国際戦犯法廷が提起された。
 法廷では「慰安婦」の被害事実が認定され、東京裁判条例5条で日本が受諾した「人道に対する罪」にあたるとの判決が下された。天皇を含む9名の被告に強かんと性奴隷制の罪に対する上官としての責任及び個人としての責任で有罪が言い渡され、日本政府に対し、国家責任と被害の認定、被害者への賠償、隠匿した資料の公開、教科書記述などの教育施策、被害者の帰国支援や遺骨返還を行うよう勧告が出された。
 敗戦直後の東京裁判では、ジェンダー・バイアスや国体護持、連合軍の占領目的のために日本軍「性奴隷」制や天皇の責任が裁かれなかったが、女性国際戦犯法廷は、それらを訴追した画期的な裁判であった。それは、「慰安婦」問題をめぐる運動に固有の意味があっただけではなく、植民地支配や戦争を引き起こした近代史のなかで、性差・階級・民族によって幾重にも消し去られたサバルタン的存在を想起させた。
 一方、当時存在していた国際法を論拠とし、東京裁判の再審として日本軍「性奴隷」制を裁いた法廷の限界もまた指摘されている。東京裁判で裁かれた罪の対象期間は、1928年1月1日から1945年の9月2日までであり、日清戦争や日露戦争、「韓国併合」は含まれていない。また、陸軍軍閥とそれに迎合した人びとにのみ責任が集中し、海軍や企業・財界人は訴追されなかったという問題点も存在している。そのため、植民地支配の不法性については再審がなされず、また、企業責任についても法廷では十分に議論することができなかった。日本の植民地支配によって生活が窮乏化し、徴用や募集によって「慰安婦」にさせられた植民地出身の女性たちに対する暴力の問題は、植民地支配による構造的な強制性や企業犯罪を問わなければ見えてこない。
 このような民衆法廷の実現は、その後10年の間に性奴隷制と天皇・日本軍の犯した罪に注意を喚起し、各国での「慰安婦」制度非難決議など、「慰安婦」問題への取り組みを前進させた。しかし一方で、加害の歴史に向き合うことへのバックラッシュが巻き起こった。2005年にはNHKで法廷の特集を放送する前に、政治圧力によって改変される事件が起きた。さらに、教科書記述からは「慰安婦」が消え、教育基本法が改悪され、在特会などの新たな右翼勢力が台頭するなかで、排外主義はかつてないほど高まっている。
 このようななかで開催されたシンポジウムでは、500名以上の観客が見守るなか、法廷の意義を想起し、この10年間の「慰安婦」問題をめぐる情勢や運動の展開などが総括された。
 第1部〈女性国際戦犯法廷とは何だったのか〉では、実行委員長の東海林路得子(以下、敬称略)が開会の辞で、朝鮮半島の判事団から法廷の判決における「植民地」という認識の弱さに対する批判があったこと、法廷で十分に議論されなかった植民地主義を今回のシンポジウムの副題に掲げたことの意義を述べた。その後法廷の主席判事パトリシア・セラーズ(以下、敬称略)が基調講演を行い、この法廷は東京裁判で裁かれなかったジェンダーに基づく奴隷制を人道に対する罪で訴追した画期的な裁判であったこと、判決で示された賠償内容を今後市民社会が実行していく必要性を訴えた。
 第2部〈アジアの日本軍性暴力被害者の証言を聞く〉で、フィリピンのサバイバー、ナルシサ・クラベリアが、日本軍によって家族が殺された後「慰安婦」にされたことを証言し、法廷によって「やっと正義を取り戻すことができた」と語り、日本政府に謝罪と歴史教育を求めた。次に、中国のサバイバーの韋紹蘭とそのご子息羅善学が証言した。韋は、日本軍の侵攻の際、日本兵に連れて行かれ「慰安婦」にされた。その時のレイプによって生まれた羅は、周囲から「お前は日本人の子だ」と疎まれて育った。罪を負う必要のない彼が日本の過ちを背負わされているということが、終わらない「慰安婦」問題の根深さを問うていた。「慰安婦」サバイバーにトラウマが刻印されるのみならず、その共同体やサバイバーの死後を生きる人びとにも傷や問題を残し続けるのだ。
 第3部〈法廷の判決・勧告/証言をどう引き継ぐべきか〉では、はじめに米山リサによる「消された裁き~批判的フェミニズムの視点から~」というビデオメッセージが上映された。そのなかで米山は、2001年のNHKの番組改ざんによって、「責任の明確化なくして『和解』は成立しない」という法廷の理念やサバイバーの証言、天皇有罪の判決が削除されたこと、法廷がもつ「批判的フェミニズム」の思想、すなわちジェンダー関係が植民地主義やレイシズム、階級差別によって拘束を受けるという視点が伝えられなかったことの問題を述べた。その上で①どのように聞き手が証言と向き合うかを問い、②「裁きなくして和解なし」という理念についてさらに考えを深めるべきという問題提起を行った。
 続けてパネルディスカッションで、鄭瑛惠から「慰安婦」問題解決だけでなく戦時性暴力防止のためにも「性暴力禁止法」の立法が必要であること、宮城晴美から日本と米国の植民地にある沖縄で性暴力が後を絶たないことが述べられた。さらに尹美香から国連や各国の決議があったにもかかわらず解決を見ない「慰安婦」運動の新たな転機の必要性、村上麻衣から若者による全国同時証言集会など、記憶を次の世代へ受け継いでいくための活動、池田恵理子から「女たちの戦争と平和」資料館建設運動などについて報告があり、今後の課題が示された。台湾とインドネシアの支援者からも報告があり、韓国からはサバイバーの姜日出が発言した。
 サバイバーを翻弄し、問題克服を阻害しているのは、性暴力に対する社会的認識の低さや戦後責任をめぐる問題だけではない。植民地独立をめぐる問題として引き起こされた朝鮮の南北分断や、東アジア諸国と日本との間にある経済的社会的格差もまた重要な要因として存在する。日本の侵略と植民地支配の歴史を問うことに対するバックラッシュが起きるなか、日本の多国籍軍参入が押し進められ、軍事主義が強化されている。そのような継続する植民地主義の現状を批判することなくして、真の問題克服は不可能であろう。
 当シンポジウムは、これまで積み重ねられた努力が結集され、広く連帯が呼びかけられた。同時に、法廷で裁かれた内容を国内で実現し、賠償や国際法違反と責任者の罪、国家責任を認定させていくためには、さらなる取り組みが必要である。シンポジウムのテーマに掲げられていた「性暴力、民族差別、植民地主義」の関係性を問い、その克服と結びついた実践や研究が求められている。

【著者プロフィール】
李杏理(リ・ヘンリ)
一橋大学大学院言語社会研究科修士課程
専門は、植民地「解放」後在日朝鮮人の生活史・ジェンダー史

宮城学院女子大学大学院 人文学会 /性と人権ネットワークESTO 正会員:内田有美
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
ESTO.gif
(性と人権ネットワークESTOロゴ)

 2011年3月11日、東日本大震災が起こった時の長く激しい揺れの恐怖と信じ難い津波の映像は、今も頭から離れない。この様な状況の中、国内外の多くの方々からご支援をいただき、被災地は着実に復興に向かっている。この場をお借りして、被災地で生活している一人としてお礼申し上げたい。
 私は以前から性的少数者(以下、LGBTI)の問題に関心があり、当事者団体である性と人権ネットワーク ESTOで活動を行っている。ESTOでは、震災後の仙台交流会で「震災とセクシュアリティ」について参加者同士で震災の体験や思った事などを話す機会を設けた。また、GIDの当事者から「断水で洗濯もできず、1枚のナベシャツを着続けている」という話から、各地より寄せられたナベシャツの寄付を行った。ESTOの他にも、多くの当事者団体で支援が行われている。だが、支援には多くの課題も残っているため、被災したLGBTIへの支援について考えてみたい。
 被災してまず問題となるのは、「医療へのアクセス」や「安否確認」の難しさである。医療へのアクセスは、GIDの当事者や性分化疾患当事者は保険証の性別記載や外性器・内性器の関係から、病院へ行きづらい状況にある。病院に行ったとしても、被災地では野戦病院の様であり、LGBTIの知識がある医療従事者でなければ混乱が生じると思われる。また、意識が無い状態で運ばれた際には「見た目」の性別で治療が行われる可能性が高く、身体的性別特有の疾病である場合、すぐに適切な処置を受けることは困難ではないだろうか。安否確認の難しさも同様で、亡くなった方の情報は「見た目」を中心にしたものが公表されるため、見た目と戸籍上の性別が不一致であった場合、安否確認は難しい。これらの問題は、同性愛者にも生じる。パートナーが病院に運ばれたり、遺体となって見つかったりした場合、事実婚状態であっても法律上の「家族」ではないため、治療の判断や遺体の引取を行えないという問題がある。
 次に、避難した際には「避難所生活の難しさ」が問題となる。「男女」で区分される避難所生活では、GIDの当事者は精神的性別・身体的性別どちらかに区分される。精神的性別の場合は、集団で風呂に入る際や更衣室利用などに支障をきたす恐れがある。身体的性別の場合は、常にストレスを感じることになる。このように、現在の避難所は「LGBTIはいない」という前提になっており、LGBTI当事者が安心して避難生活を送れる環境ではないことが多い。
 最後は「復興への支援を受ける難しさ」である。性別記載のある書類を提出する場合には、GIDの当事者や性分化疾患当事者は、窓口で性別を確認される等の問題が生じると思われる。
 この他にも、被災したLGBTI当事者はそのセクシュアリティ故に多くの困難を抱えている。そのため、このような状況を是正するよう社会に求めるだけでなく、LGBTIについて知識のない人や機関とLGBTI当事者を仲介するような支援も必要ではないだろうか。
 上述したような困難は生活と権利を守る上で重要な問題であり、蔑ろにされることではない。被災したLGBTI当事者がQOLを確保するための支援が今後も必要である。

中野区区議会議員 石坂わたる
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
 「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティで気の毒ですよ」。この石原都知事の発言の裏には、「マジョリティであることは、マイノリティとは遺伝的に異なる盤石な存在である。そして、満ち足りた存在であるための必要条件だ。」という幻想が見え隠れしている。
 また、石原氏が公人としてこうした発言をし、少なからぬ都民がその発言に賛同あるいは傍観してしまう背景には、「同性愛者はテレビの向こう、あるいは、自分とは関わりのない所に集まっている不幸な人たち」と考える人も少なくないことを示しているのではないか。そういう幻想を抱えている人たちにとって「自分もいつ不幸になるかわからない、あるいは一歩不幸に足を突っ込んでいるのかも」ということに気づいてしまうことは恐怖なのだろう。そのため、より不幸な人間を見つけ、「自分はマイノリティほど不幸ではない。だから、自分は幸せなんだ」と思わずにはいられないのではないだろうか。
 しかし実際には、人はみな得手不得手があり、足りないところがあり、誰にでも不幸は訪れる。そして、マイノリティもマジョリティも、一人一人が多様であり、異質である。時には衝突を経験しながらも受け入れる姿勢を忘れることなく長い時間をかけて補完・共生をしていくことが大切なのだ。補完・共生をしていくことが、完璧な一人の人間が生み出す以上の結果を出せる可能性を持っている。そうしたことを可能にするためには弱さの自己受容が必要なのだと思われる。
 なお、今回の石原氏の発言に対し、1月14日に中野区内において当該発言に対する抗議を行う集会が行われた。しかし、その3か月後の選挙の結果は石原氏の四選だった。
ishihara01.png
(抗議集会の様子 ©レインボー•アクション)
ishihara02.png
(抗議デモの様子 ©レインボー•アクション)
 これまで知事に対して継続的で効果的な働きかけを行ってこられなかったこと、抗議集会などを行っても「4割以上の有権者が投票権を放棄してしまう中での石原氏の四選」という流れを変えられなかったことは(今回の抗議集会を含め)従来のゲイリベレーションの課題だと思われる。
 特定の人物を首長とする判断を有権者が合法的に行った以上は、今後、都民の代表として選ばれたその首長と建設的な議論や交渉をどのようにしていくのかを考えていく必要がある。適法性や妥当性が最低限担保されている社会のシステムそのものを否定しても、政治に関与することに対する諦めからの放棄・倦厭・拒絶をしても問題はいつまでたっても解決はしない。法、一般公務員、議員を上手に活用し、周囲の人に自らの思いや考えを伝え、社会に浸透させていくことが必要なのである。こうしたことは万人に与えられた当然の権利であり、その正当な権利を放棄してしまうことなく活かしていく方法を模索していくべきだろう。

中華人民共和国からの留学生
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
 2011年4月3日から4日にかけ、中華人民共和国・上海の外灘地区で営業していたQ Barというゲイバーに公安が押し入り、客と従業員合わせて60人以上を半日前後拘留した。拘留された人々は、食料や飲み物、毛布などを与えられることなく小東門警察署にて拘留されたという。拘留が行われた理由として、公安は「セックスショー」がバーで行われていたからとしているが、実際にはそのような事実はなかったと多数の被拘留者は述べている。
 なぜ、このような行為が行われてしまったのだろうか。考えられる理由がいくつか挙げられる。まず一つ目に、中華人民共和国に蔓延するホモフォビア(同性愛嫌悪)が挙げられるだろう。中華人民共和国では、1997年になりソドミー行為が合法化され、また2001年に精神疾患リストから同性愛が除外された。しかし、現在もなお、地域やコミュニティーのなかで、同性愛者、ひいては性的少数者に対しては、差別的な視線が向けられている。また、若い世代の間では、徐々に性的少数者に対しての差別視というものは薄れてきている反面、親世代などを含む社会全体は、未だ根強い差別意識を持っているということを、私自身も肌で感じてきた。
 二つ目の理由として、中華人民共和国の政治の性質が挙げられる。中華人民共和国の民主活動家が多数拘束、逮捕されている昨今の状况を鑑みてもわかるであろうが、政府にとって政治的不安定を招くと判断された中華人民共和国国民は、その政治的主張や社会的な位置を吟味されることなく、その自由が制限されてしまうことが往々にしてある。その明確な証拠として、今回の事件でも、中華人民共和国の法律では勾留できる対象は同国国民に限られるという事情もあるものの、バーにいた外国籍の客は拘留されることなく、中国籍の客と従業員が拘留されたことが挙げられるであろう。また、一つ目の理由として挙げたホモフォビアと重なるかもしれないが、2007年にも起こった上海のゲイバーへの大規模な手入れがあったことや、2005年に北京で「北京同性愛文化節」と銘打たれたイベントが、開催直前で公安による介入で中止させられたという事例もある。そして、2009年からLGBTの権利を主張する上海プライドウィークが企画・開催されているが、その中のコンテンツが急遽中止を求められたり、パレードを行うことができなかったりと、LGBTの権利拡大を求める行動は(市・省)政府の意向にそぐわない行為とみなされれば、抑圧されることがあるのだ。このように、LGBTをめぐる状况というものは、政治的、そして中華人民共和国独自の文化的・歴史的文脈など複雑な関係が入り乱れて形成されている。そのような事情があるため、今回ここで提示した理由は、全ての理由をもちろん含んでいないし、北京を含む中華人民共和国の各都市や、台湾や香港とは違うであろう。ここには留意しておいていただきたい。最後に、中華人民共和国を含む世界のLGBTがその性的指向を原因として差別されない世界が築かれることを希望して終わりとしたい。

CGS運営委員/国際基督教大学 上級准教授 生駒夏美
 
 2011年1月末、一橋大学でジェンダー社会科学研究センター主催によるワークショップ「大学における育児サポート」が開催された。妊娠中の院生や育児中の男性教員など多種多様な参加者80名以上が集まり、会場は切迫した問題意識と熱意で満ちた。育児サポートを展開する東京学芸大学(無認可保育所)・東北大学(同)、宇都宮大学(認可保育所)、新潟大学(シッター制度)から、各大学の事情や規模に応じた制度が報告され、会場からは実際的な質問や抵抗に屈せず成し遂げた方々への尊敬と羨望の声が上がった。
CGSでも2007年から大学側に育児支援の必要性を訴えているが、大学側は規模の小ささと恒常的なニーズの不在を理由の一つに導入に消極的である。待ったなしの育児に追われる当事者は大学に失望しつつ対応に追われる他なく、逼迫した事情は伝わりにくい。そんな中で近隣の一橋大学が育児支援に向けて動き出したことは、大変心強く喜ばしい。一方、多くの大学が育児支援を検討する中、ICUが遅れをとっていることに危機感も感じる。18歳人口が減少の一途を辿り、ICUでも年齢の高い学生や、海外からの学生/院生が今後増加することが予測され、育児世代も増えるだろう。国内外から教職員をリクルートするにも、子育て世代であれば育児支援の充実した職場を望むことは間違いない。そんな状況下で育児支援の有無は、大学競争力に多大な影響を与え存亡に関わる問題となる。今なら、ICUの特色を出した育児支援を打ち出すことで、社会へのアピールと競争力を増すことが可能だが、それにはすぐにも動き出す必要がある。
 日本の戦後社会において、育児や介護といったケアを家庭に押し付ける政策/企業運営がされ、それによって社会/企業はサラリーマン戦士をケアの負担から解放し、経済活動に従事させてきた。そのような男性中心モデルの社会は一橋大学の佐藤文香先生がワークショップで語ったように「人間誰しも人生の一時期、誰かのケアに依存して生きる時期がある」という当然のことが忘れられたバランスを欠く、ジェンダー不均衡かつ不平等な、しかもその点が不可視化された社会であった。
 しかし不況の中で女性の労働力が必要とされるに至り、その確保のために育児支援に乗り出す企業が増加しつつある。だが社会の大部分はまだ男性モデルからは脱却できず、結果として、女性たちの多くが労働力として社会に参加しつつ、ケアも背負う羽目になっている。
 2月14日付けの毎日新聞によると、日本人の「子どもを持ちたい」という欲求は世界的に見て極めて低く、子育ての負担感が日本女性に特に強いことがカーディフ大の調査で明らかになったという。男性同様に働き、かつ育児をほぼ一手に引き受けることは、多くの女性にとって過重な負担となり、子どもを持つことを躊躇わせる。バラマキの少子化対策も実施されたが、本質的解決に至る政策でないことはこの結果からも明白である。必要なのは単に経済的な支援ではない。子育ての大部分が女性個人に押し付けられ、「個人の問題」として公の議論の土壌に乗っていないことが問題なのだ。かつては大家族や強い地域の結びつきが存在し、妊娠・出産・育児・介護は「共同体の問題」として分担されていたが、核家族化し隣近所との交流も消失した現代社会にあって、一個人、一家庭では対処できない事態になっている。旧態依然の男性モデルから妊娠・出産・育児・介護を社会全体/共同体全体/企業ぐるみで支える新モデルに脱皮しなければ、この社会の未来は暗い。
社会の良心であるべき大学だが、現実には男性中心で、男性研究者の有償労働を女性の無償(あるいは低賃金)労働が支えるモデルから脱していない。それは教員の男女比率が7対3のICUにも言えることである。そんな中、育児支援を考える大学が出てきたことは、今後の社会のあり方の改善に結びつく一歩と言えるだろう。これまでのように労働や学びの場から育児が排除されるのではなく、育児が社会の大切な一部分として認識され援助されることを、将来の社会を担う学生たちに示すことは、重要な教育的意義を持つ。少子化は大学にとって大問題である。子育てに大きなストレスや負担を感じさせない環境作りを大学側が率先的に進めることは、ひいては少子化対策になる。ICUにはそのような教育的意義に富んだ、先進的なモデルをぜひ提示してもらいたい。
 ICUはICU教会に幼児園があるのだが、残念ながら常勤教職員が子どもを託せる場所としては機能していない。この状況を変化させ、幼児園の一部に保育施設の機能を持たせる可能性について大学側にはぜひ検討していただきたい。形態としては1)幼児園の機能はそのまま維持し、2)保育施設の部分は外部委託し、3)ICU関係者の入所を保証し、4)幼児園の授業に保育児もおけいこ式に適宜参加する、というのはどうだろうか。政治主導の幼保一体化が進まない中、保育と教育の分断に悩む親は多い。そんな中で独自の幼児教育を展開しているICU幼児園に併設の保育施設ができれば、すばらしい可能性となる。
 一方、上記のような保育施設の設立には時間も費用もかかるため、それまでの期間は以下のような小規模育児支援の方法が、最も現実的かつ実践的ではないだろうか。
 大学側に用意してもらいたいものは、育児できる静かな部屋を一部屋、ベビーベッドを2、3台と保育者が座れるソファ、水道設備、ポット、電子レンジなどがあればよい。晴れた日はキャンパスが保育場所となるので、それほど大きな部屋である必要はない。障がい者やマイノリティ支援にも共通するが、各建物におむつ替えのできる多目的トイレを設置することも重要だ。
 保育者としては保険加入した外部事業者や病児保育可能なNPOに法人契約をするのがよいだろう(希望的には学生/院生の利用者に対しては費用の一部補助が望ましい)。このような小さな保育室の場合は、恒常的な利用というよりはスポット利用で、保育所に連れて行けない事情のある時に、利用者側が自分でケアをアレンジする。普段は居住地近くで何らかの保育施設を利用している者には、この方法が最も現実的だ。また保育利用がないときでも、こういう場所があれば、授乳やおむつ替えに利用できる。利用者は事前登録制とすれば安全も保てるだろう。また新潟大学のように、外部の講習を受けた学生にシッター登録をしてもらい保育補助者として働いてもらうこともできるだろう。教育学や発達心理学を学ぶ学生にとってかけがえのない教育経験となるし、比較的年齢の高い幼児や学童の場合、学生シッターに少額アルバイトの形でケアをしてもらうことも可能だ。このシステムは新潟大学で既に機能しているということである。経済的に厳しい学生/院生のために、プロと学生シッターで利用料に傾斜をつけ、利用者側が選べるようにするとよいだろう。
 このシステムだと、キャンパス内に子どもが常にいて、学生が育児を間近で見、参加する機会を提供できる。育児やケアがすべての人にとって重要な、そして当たり前の営みであることを肌身に感じることは、学生たちの人生において大きな意味を持つだろう。ICUのような規模の大学であっても、特色のある育児支援が可能であるし、ICUはぜひ率先してそのような育児支援のモデル校となってもらいたいものである。

【付記:育児支援サービスを展開する大学の状況】
 参考のため、特色のある育児支援サービスを展開している首都圏の近隣大学の事例をいくつか紹介する。このような大学は年々増えており、ICUも乗り遅れずに加わってもらいたいものである。また、ICUと同じくリベラルアーツ教育を提供するアメリカの大学の状況も参考までに記した。(米国情報収集:サマンサ・ランダオ)

国内

日本女子大学:付属幼稚園に保育施設が併設、学内関係者(学生含む)にサービスを提供。
慶應義塾大学:日吉キャンパスに認可保育所(一時保育併設)を開設。外部も入所可。運営は外部業者(ベネッセ)。
武蔵野大学:直営の付属幼稚園が預かり保育を実施。
新潟大学:シッター制度を導入。
上智大学:教職員、学生、院生対象の託児施設設置。運営は外部業者(ポピンズコーポレーション)。利用料金の補助あり。
東京学芸大学:小金井キャンパスに外部委託(サクセスアカデミー)で保育施設開設。外部を含め、教職員、学生利用可。学生(学部・修士・博士・特別専攻科に所属する正規生)と、職員・学生(正規生以外)・地域住民の区分による利用料金傾斜式。
東京大学:本郷に認可外保育所を二カ所(学内関係者のみ入所可)と認可保育所(学外も入所可)を一カ所、駒場に認可外保育所(学内関係者のみ)と認証保育所(学外も入所可)をそれぞれ一カ所、白金キャンパス、柏キャンパスにそれぞれ一カ所ずつの認可外保育所を設置。五つの認可外保育所は大学直営で、実際の運営は外部委託(サクセスプロスタッフ、ポピンズコーポレーション)。
宇都宮大学:認可保育所を運営。外部も入所可。
早稲田大学:学外にも開かれた認証保育所を設置。運営は外部業者(ポピンズコーポレーション)。幼保一体型。

海外(ICUと同規模のリベラルアーツ校)

Allegheny College:キャンパス内に民間の保育施設あり。大学が場所を有償で貸与。
Dartmouth College:教職員のための幼児教育保育施設を運営。収入に応じた傾斜式授業料。育児支援情報を大学ホームページに掲載。
Rice University:教職員と学生のためのモンテッソーリ式幼児教育保育設備を運営。その他、炊事場のついた授乳室あり。外部保育施設にも大学関係者用スロットを確保。大学ホームページに学童保育など育児支援情報掲載。
Swarthmore College:近隣の保育施設への紹介システムあり。大学からの資金援助はなし。

一橋大学ジェンダー社会科学研究センター 財務・総務部門総括:佐藤文香
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

p015_01.JPG p015_02.JPG
(ワークショップの様子)

 いまや「国立大学法人」と呼ばれる国立大学はその運営を6年ごとに定める中期目標・中期計画に基づいて行うことになっている。二期目を迎えたこの計画に、わが大学でも「研究との両立を図るべく出産・育児支援を行う」ことがようやく明記されるようになった。
 私たちジェンダー社会科学研究センター(CGraSS)は、一貫して自分たちを教育・研究を担う組織として位置づけてきた。それは限られた人的資源から活動の範囲には限定が必要であり、福利厚生や行政を担う組織はいずれ大学当局のもとにオーソライズされるべきであるという私たちの考えを反映した姿勢であった。だから、2011年1月の公開ワークショップ「大学における育児サポート ―新しい一橋大学に向けて」の開催に迷いがなかった、といえば嘘になる。しかし、リーダーシップをとりそうな組織が他に見あたらず、「具体的な施策」が天からふってくることも期待できない以上、少しでも取組みを形にしていくべく運動をおこしていく必要があった。こうして、私たちは、他大学の多様な取組みに学びつつ情報を共有することを目指し、ワークショップの開催にふみきることになった。
 広報の開始がやや遅れたこともあって、年明けまで参加のエントリーは10数名にとどまっていた。なにしろ、過去の「当事者」たちは既に困難をくぐり抜けた「成功者」である。昔を懐かしく思うことはあっても、切実な課題としてこれを受け止めるにはやや距離があるようにみえた。一方、未来の「当事者」はといえば、学部生にはまだ遠い先のお話であり、院生の中にも「そんなことよりさしせまった問題」を抱えた人びとが多くいた。そして、現在の「当事者」たちは、あまりに渦中にありすぎて参加するだけの心身のゆとりがない人びとも少なくなかった。初の試みとして臨時託児所を設置したのも、このワークショップを一番必要とするであろう彼ら/彼女らに足をはこんでほしかったからだった。
 声かけに奔走する中での経験も他のイベントの時とはまた味わいの違うものだった。クールな女性の反応とさわやかにエールを送ってくれる男性の背後にある非対称性にたちすくんだり、資源をもたない他者への想像力のなさに絶望したり、育児サポートに熱心な人に対しても、他の社会的課題にも同じだけの情熱をもって取り組んでくれるだろうかと不信感を抱いたり...。なかなかに消耗したことも事実である。そんな中、私を突き動かしたのは、もうじき定年を迎えるある先生が寄せて下さったメッセージだった。若い頃、大学の保育所設置運動にふれ希望に満ちて情報を集めたこと、何度かチャンスに遭遇するも職場の規模の問題につきあたったこと、そうしたエピソードにそえて、今回のワークショップの開催を「夢のように感じる」と主催者への謝意が述べられていた。彼女が断念した「夢」と時の経過の重みを思うと、胸にこみあげるものがあった。
 さて、結果はどうだったかといえば、幸いにも当日は80名にものぼる参加者を得て会場を熱気でいっぱいにすることができた。学長・副学長への「ラブコール」も功を奏し、彼らに「当事者の切実な声」の一端が確かに届いたという手応えも感じた。このワークショップを、これまで点在してきた人びとをつなげる場として機能させるという目標に照らしてみれば、ひとまずこれを「成功」とよんでもよいだろうと思う。もちろん、この「成功」は長い長い道のりのほんの小さな第一歩を踏み出したにすぎないものではあるのだけれど。

「にじいろかぞく」(http://queerfamily.jimdo.com/)管理人 オノハル
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
KidsAlright.JPG
(Still of The Kids Are Alright ©2010 TKA Alright, LLC All Rights Reserved)

 私は、同性パートナーと子どもを育てているレズビアンマザーです。今回は映画『キッズ・オールライト』に関して、一当事者として感想を書く機会を頂きました。映画を見た方もおられるでしょうか。簡単にご紹介すると、レズビアンカップル(ジュリアン・ムーアとアネット・ベニング)に育てられた2人の子ども(人工授精で誕生し、自立目前)が、遺伝子上の父に連絡したことから問題が起こって...と、そんな話です。南カリフォルニアを舞台にした家族のコメディという触れ込みでしたが、宣伝とは印象が違うなあ...。これが私の最初の感想でした。
 主演の2人をはじめ、出演者の演技は素晴らしかった!でも今回はあえて「違和感」について書いてみます。この違和感の中に、日本のLGBT家族の「今」が見えるように思うからです(日本にも相当数のLGBT家族が実はいるのです!)。
 違和感のひとつ目は、あえてレズビアン家庭を題材にしているはずなのに、それは、どうでもよいことのように描かれていることです。当事者としては、肩透かしを食らったようになります。これには、監督であるチョロデンコのことに触れる必要があります。彼女は自身も人工授精で子どもを持つレズビアンで、ちょうどこの映画と同時進行で妊娠、出産をした当事者です。そこで思い当たるのは、この映画は、LGBTコミュニティ内側ではなく、外側に向けて作られたものなのでは?ということ。現に、ヘテロセクシュアルの方からは「普遍的な家族の話だと思った」など、共感中心の感想が多く寄せられています。映画にあるのは「家族って同じでしょう」という監督の強いメッセージ。それは、『子どもたちは大丈夫』というタイトルにも繋がっています。我が家は人工授精ではなく、再婚型の家庭ですが、偏見を感じたことは今のところありません。とはいえ、日本はまだまだ難しい。子どもがいると言うと、ほぼ確実に「子どもたちは大丈夫"なの?"」という質問をいただきます。
 アメリカと日本の、LGBT家族を取り巻く現状の差。この点も違和感になっていると思います。アメリカではレズビアンの人工授精は20年ほど前から一般化したそうですが、今は当時生まれた子どもが成人する頃。子育ての1サイクルが終わっているのです。一方、日本ではレズビアンの妊娠の事例はまだ始まったばかり。非婚男女間の人工授精は日本では認められてはおらず、非公式に行われているのが現状です。それでも子どもが欲しいレズビアンたちが道なき道を開拓している、創成期にあたるのだと思います。創成期に必要なのは、20年後に分かる現実ではなく、前を向く希望です。その意味でこの映画は、生々しい。ネタバレを避けて明言しませんが、家族を持ったら「幸せに暮らしました」ではなく、やっぱり日常が続いていくのだという、あえて今直視したくない現実を突き付けてくる映画なのだといえましょう。日本でレズビアンの妊娠がもっと一般的になった頃にこの映画を見たら、また随分違ったのではないかと感じています。
 しかし、こうしてあれこれと言ってしまうのも、結局は期待の表れ。LGBT家庭を描いた映画が一般公開されたことを喜びたいと思います!

月別 アーカイブ