CGS読書会に参加しませんか?

CGSスタッフ : 朝倉哉帆【CGS News Letter002掲載】

 4月からCGSが正式に発足し、その活動のひとつとしてジェンダーやセクシュアリティに関する読書会が行われた。これはCGSで働いているスタッフをはじめ、ジェンダーに興味のある人なら誰でも参加できるもので、学生が主導して毎回少しずつ読み進めていく形をとっている。今学期は各およそ8回、参加人数は大体6人から10人くらいだった。読書会は3つの分野から成り立っており、それぞれ社会科学・自然科学・人文科学分野から、ジェンダー問題をテーマとする図書を取り上げた。週に3回、7限の授業が終わった後の7時10分から約1時間半ほどであったが、議論が白熱して9時過ぎにまで及ぶこともあった。専門分野の違う学生たちが集まり、またセンター長である田中かず子先生も多忙にもかかわらず参加してくださり、自由で活発な空気の中で興味深い議論が多く生まれた。参加者それぞれが自分自身や社会の問題を考えていく上での何らかのヒントを得られたことだろう。今後CGSの活動がここからも更に広がっていくことを期待している。

 勉強会で使用したテキストは以下の3冊である。
・社会科学分野:マーサ・A・ファインマン著、上野千鶴子他訳『家族、積みすぎた方舟』(学陽書房、2003年)第1章
・自然科学分野:トマス・ラカー著『セックスの発明』
・人文科学分野:ミシェル・フーコー『性の歴史I 知への意志』第1章−第2章

 社会科学分野読書会における中心的な関心は、法が価値中立的であり、社会の文化的・慣習的な通念(ジェンダーを含む)に対し有効な道具として働きうるという確信を根本から崩す、著者の挑戦的な視座にあった。我々は通常、現在の法規制の規範と適用を変革することで社会制度を改善しようとする。しかし著者によれば、公的に規範や基準を規定することこそが、新たなイデオロギーを作ることに他ならない。中でも法はジェンダー化された文化的・慣習的な社会通念や願望に基づいた、最たるものである。そして法による新たな社会規範を内面化した社会は、差異化する生のあり方に排他的な装置として働く。社会制度を改善するには、法のあり方そのものが根本から問われねばならないのだ。

 我々の多くは法というものを、社会を規制する最も有効な手段として見なし、現状に適した方法で改善し使用することで社会変革が可能であると信じがちである。しかし法が本来的に持つ性質そのもの、すなわちイデオロギー装置としての機能については自覚していない場合が殆どである。我々の社会を支える基盤そのものが孕むジェンダー・バイアスについて、批判的な視点を常に持つようにすべきだろう。
 
 自然科学分野では、ジェンダー/セックス概念についての一般的な認識を改めて考えさせられた。通常セックスとは生物学的な性を指し、ジェンダーとはセックスに基づいて社会的に築かれた男女の性差観念を指す言葉として使われている。つまり、ジェンダーは文化や社会に応じて変化する場合があるが、セックスは外・内性器を医学的に分類・命名したもので、人間の根本的・絶対的な性差基準であると認識される。ところがこの著書は、生物学的な性(セックス)が、初めから文化の要素を背負いこんでいることを歴史的に明らかにする。セックスは、性器の命名・分類の作業において、社会的性差に呼応するように差異化されてきた。すなわち、自然な身体が社会的ディスクールを確証する記号として作り上げられたのである。社会的に現れる男女差の根拠を身体に求めていたものが、科学により分類された性差をもって社会秩序を構築する基盤を作るようになっていたのだ。

 この著書の主張を元にセックスという概念を改めて考えなおすと、ジェンダーという言葉で示される概念との境界線が曖昧であることに気付く。というよりも、価値中立的なものがありえないのだから、規範や基準といったものは全てジェンダーであると言っても過言ではない。それでも人間の絶対的な差異基準としての生物学的セックスという概念は便宜上使われていくだろう。だがこの根本的な認識自体を問わなければ、ジェンダー問題を理解することは難しい。

 上記2つに共通しているのは、「価値中立的な絶対的基準などは存在しない」という議論で、社会や認識の基盤を再問題化する視点だ。さて人文科学分野でとりあげたフーコーは、規範や統制を含む正統性というものがどのような構造で成立するのかを問題にしている。つまり、自明だと見なされている事柄や歴史的事実のうちに含まれている価値、例えば正統/異端、普通/異常、健全/病理などを判断する基準は、権力・知・快楽の関係性において生起している。この関係性は複雑な言説の網の目を紡ぎ出し、人為的な構築物としての世界を成立させ、「真理」の言説を編み出す。真理の言説は繰り返し語られることで一つの正統な知の体系となり、グローバルな装置として機能し、世界を管理する。

 このようなフーコーの世界観に、先に挙げたラカーが大きく影響を受けていることは明らかである。我々は安易に、ある事物にはそれなりの原因や理由があるはずだと想定するが、そのような単純な思考回路をフーコーは拒否する。彼は我々が日常的に行っている思考そのものが、無批判に内面化された一つのパターンで行われていることを暴き出す。読み手が自身の認識そのものを問題視する余裕がなければ、フーコーの議論についていくことは難しい。しかしジェンダー問題に関わるということは、自分自身の認識をまず問うことではないだろうか。そういった意味で、フーコーのテクストはこの読書会の中で最もハードなエクササイズであったと思う。

 私はこれら3つの読書会へ参加して、次のことを以前にも増して考えるようになった。我々の思考の枠組みや基盤自体が、社会的な通念に大きく影響を受けているものであるのは、仕方のないことである。我々は生まれたときからある社会の中で生活し、ものの考え方や受容の仕方を学んでゆくのであり、その社会に適応していくために文化的規範を内面化していくものだからだ。だがそれ故に、我々の思考や認識は必ず何らかのバイアスがかかったものであり、完全に客観的な視点や中立的データなどが存在することはあり得ない。  ある思考が社会的な通念と矛盾しない場合でも、或いはそのようなときこそ、その思考の妥当性を執拗に問い直さなければならないだろう。

 ジェンダー問題とは、単に差別や偏見などに基づく社会問題を対象とした研究を行うものではなく、社会的生活を営む我々全てに関わる問題である。私自身は文学研究を専門にしている者だが、文学ないしは文学研究の重要性に対する認識が薄れてきている中で、文学にジェンダーの視点を意識的に取り込むことにより、現代社会のアクチュアルな問題に強くコミットしていく可能性があると考えている。我々を取り巻く数々の複雑な問題は、社会学、文学、思想、自然科学、法学、政治学など、多様な視点と方法からアプローチしなければ現実的な議論にはならない。

 秋学期の読書会は時間的な制約から一本に絞ることにし、ジュディス・バトラーの『ジェンダー・トラブル』を取り上げる予定だ。学内・学外を問わず様々な研究分野に携わる学生が多く参加し、ますます活発な議論が生まれることを期待している。

月別 アーカイブ