国際関係学科 : 加藤恵津子【CGS News Letter002掲載】
7月、日本女性の出生率が1.29人と発表された。過去10年ほどの出生率低下の犯人として、私を含む「男女雇用機会均等法第一世代」の女性たち、または彼女たちが仕事と家庭を両立できないような社会制度を指摘する議論が多い。だが今一度注目されるべきは、この世代の「夫たち」である。高度経済成長期の「おじさん」の価値観を受け継ぐこれら「ネオ・おじさん」は、妻と家事分担するだけの技術がないばかりか、最低限の生存技術を持たずに妻に「世話される」対象として、「子供」とともに「社会的未成熟者」のカテゴリーに属するといえる。このような男性は女性にとって、追加労働と過労、出産意欲喪失のタネである。託児所増設だけでなく、子供や家事を託せる「社会的成熟者」たる夫の増加がなければ、出生率向上など望むべきではない。
日本では7月、一人の女性が生涯に産む子供の数が過去最低の1.29人になったとの発表があった。たしか1990年代初めには、「1.53ショック」という文字が新聞の紙面を飾り、「これで日本の人口は縮小が確実」と、有識者は文字通りショックを隠せない様子だった。あれから10年以上もの間に、人間の再生産という社会の大問題に対し、「女性たちからの声を活かした」手がほとんど打たれていなかったのは驚きである。もちろん、子供を持つことを選ばない人の立場が社会の中で認めらるようになってきたのは、大変めでたい。だがここでは敢えて、「子供を(もう一人)持つことに関心がある」女性たちに「でも産めない」と思わせる状況の方に焦点を当てたい。
ちなみに「1.53ショック」騒ぎの頃、修士課程を終え短大に勤めていた当時の私は、心の中で「ガッツポォォーズ!」をしていた。なぜなら私は、20代後半という「豊穣な」年齢にもかかわらず、意図的に日本の人口を下げようとしていたからである。
1986年の男女雇用機会均等法施行からしばらくは、「女にワガママを許すな」(この場合「ワガママ」とは家事・育児以外のことをすることらしい)というおじさんたちの声が、ビルの山々にこだましていた。女子への就職面接でも「結婚・出産してもホントにこの仕事を続けられるのか?そんな体力や能力や気力がオマエにあるのか?」というオドシとして、家事や出産は使われていた。企業就職の道を選ばなかった私の耳にすら、それぐらいのことは入ってきた。
よって体力も気力もない(が、限られた分野にだけ能力があるような気がした)私は、「そうです、両立はできません」と、結婚による家事と出産を放棄することにした。そして、なるべく多くの同年代の女性が私と同じことを考え、「みんなして」日本の人口を下げることにより、日本「おじさん」社会に一泡吹かせることを願った。だから「1.53ショック」は、私のdreams come trueだったのである。
一方、同年代の女性の中には、体力・気力の限界と向き合いながら仕事と結婚生活の両方を選び取ってきた多くの人がいる。この人たちが、保育所の不足・育児休暇の取りにくさなど「産みたくても産めない」具体的な社会状況を次々と明るみに出してくれた。このように、私ども「男女雇用機会均等法第一世代」の女性の中では主に二つのサブグループが、出生率低下の犯人として非難を受けながらも、出産を(女の本性とかヨロコビとかいうレベルから)「社会問題」のレベルに押し上げるのに貢献してきた、と私は考えている。
ところで、上の議論の中で不在、というか盲点になっている人たちがいる。それは均等法第一世代の「夫たち」である。より年長のおじさんたちが、高度経済成長期の残照を背負って「女は家にいて家事・育児をしろ」と言うのは、憐れながらもまだわかるとして、私たちの世代の夫たちはどうか。「キミが仕事するものいいけど、家事・育児もちゃんとしてよね」と、微妙にやさしい言い方をしながらしっかり自分の父親を再生産する、「ネオ・おじさん」も多いのではないか、とずっと感じてきた。
そんな今日この頃、朝日新聞に、『男性の家事力、出生率上げる』(7月20日)、『魅力的男性は家事力を磨く』(7月24日)と題する、いずれも33歳の女性からの投書が載った。最初の投書を書いた看護学生いわく、既婚で子持ち・30代の友人たちから聞くところ、「一番の負担になるのは夫の世話らしい。身の回りのことを妻にしてもらおうとする。家事を分担しようとしても技術もない」。そして「少子化問題の解決のカギは男性の意識よりも、家事の能力開発にある」と言い、家事能力がなければ進級・進学ができないような教育制度を提案する。これに応えて寄稿した主婦は、母として1歳7ヶ月の息子に望むことの一つに「家事ができる人に」を挙げる。この人の夫は「出産と母乳を出すこと以外、何でもできる」そうで、「男性の皆さん、鍛えるのは『家事力』です」と呼びかける。
そうだ。家事の技術がない男性は、二重に少子化の犯人なのだ。まず彼らは、育児はおろか、女性が出産・授乳に時間を割くあいだも依然として必要な、日々の家事を担えない。さらに女性にとって彼らは、「世話の対象」として「子供」と同じカテゴリーに入るため、女性の労働を増やし、疲れさせ、「夫とあの子以外にもう一人子供がいたら、仕事を続けられないわ」と思わせるである。
この二つ目の点は、文化人類学的に重要である。すなわち、自己生存のための食糧確保・衛生管理の能力がなく、女性に世話してもらわねば健康に生きていけない男性は、子供と同様、「社会的未成熟者」のカテゴリーに属するといえる(面白いことに、女性向けの料理雑誌で『カレと子供が喜ぶおやつ』という表現を見たことがある。一部の女性にとっては、この「女・子供」ならぬ「男・子供」カテゴリーはすでに自明のことのようである)。そしてこのような「未成熟者」は、15歳までの子供と同様、収入のある仕事などしてはいけない。あるいはどうしてもしたいなら、収入(お金)でおのれの生存技術の欠如をすべて補うことで「準・成熟者」と認められるコース、すなわち食事はすべて外食、洗濯と掃除はコインランドリーやプロに任せる道を選ぶのもよい。だが決して成熟者のように、配偶者を持って子孫を残す資格があると思ってはいけない。
家事が「得意」とか「好き」である必要はない(このような言い方自体、高度経済成長期の専業主婦層が生んだ特殊な言いまわしではないかと思う)。たとえば採集狩猟の社会で、矢じりを作ったり、熱した石の上でダチョウの卵の卵焼きを作ったり、食べられる植物とそうでないものを見分けるといったことに相当する、「一人前とみなされるための当たり前の技術」という考え方でよい。
未成熟な「成人」男性の世話をしたくないがために、結婚そのものを避ける女性、また結婚しても、出産によって世話の対象を増やすことが「体力的・気力的に」できない女性は多いと思う。託児所の増設と同様に、子供を託せる夫、また女性が仕事をしたり子供と一緒に過ごしたりするあいだ家事を託せる夫が増えないなら、出生率向上など考えない方がいい。