飯野由里子×ミヤマアキラ対談:「<名付け>をめぐるポリティクス」質疑応答

【グループ1】
 非異性愛者と異性愛者の関係は、わざわざ名乗る必要がない社会になっていくのが理想というふうにおっしゃっていましたが、お二人にとって、もう少し具体的にどのような環境が理想なのでしょうか。

【グループ2】
 世代による思い込みというか、偏見ってあると思いますが、若い世代になるにしたがって、セクシュアリティがマイノリティに対する偏見は少ない傾向にあるように思いました。
そして、お二人のお話の中にあった、「アメリカ人が嫌いだ」ということと「同性愛者が嫌いだ」ということに違いがあるんじゃないかということを、僕もさっきから考えているんですけど、いまいちはっきりした答えがありません。アメリカ人が世界の中でマイノリティと考えている人がいないということも大きいのかなと思いました。ただ、9.11以降、アメリカ人というだけで世界の人から嫌われてしまっているというふうに思っていて、それをむしろ、ざまぁみろっていうのとはちょっと違いますけど神学者がいてなんですけど。つまり、今までは黒人っていうだけで差別されてしまうような状況を、アメリカ人全体が負っているっていうのは似たような状況であるっていうふうに言っているコーネル・ウエストという黒人の神学者がアメリカにいて、そのことを思い出したりしました。すみません、まとまらなくて。

【グループ3】
 女を愛する女=レズビアン、ということが、パッケージ化の中でひとつの要素だっていうことをおっしゃっていたと思うのですけれど、ちょっとそのことについてよくわからなかったので、詳しく聞かせて頂ければと思います。

【グループ4】
僕たちはどう行動すればいいのかなっていうのがわからなくなっていて、それが知りたくて。例えば男と女が付き合う場合でも、男はもしかしたらセックスしかしたくない、女は結婚したい。けど、それを最初からはっきりしないとだめで、そしたら、女の人が〈名乗る〉、「結婚したい女性、異性愛者」ってことを名乗らないとだめだし、男の人は「俺はセックスしかしたくない男だ」っていうことを言わないとだめだし、でないとはっきりした行動がとれないと思うんですよ。〈名付け〉と〈名乗り〉の問題があるってこともわかりますけど、〈名付け〉をなくすだけでは問題を解決出来ないんじゃないか。だとすればどうすればいいのか、僕たちはわからないので、それを教えてほしいです。

【グループ5】
どのようなことをきっかけにして、女性を愛するようになったのかということを教えて頂きたいと思っていて、それは男性をそういう対象として見られないから女性を好きになったのか、それとも女性を好きだから、というのか、どっちなのかなという話がでました。

【グループ6】
非異性愛者と異性愛者っていうのは、表立って外面的に判断できることではないと思うんですけど、マイノリティである非異性愛者の方々っていうのは、恋愛をする時に、その相手とはどこでどのようにして出会うのかなということを、質問にさせていただきたいです。

【グループ7】
レズビアンは女が好きな女というのが一般に流通する定義だと思うんですけど、そこに違和感を覚えて、レズビアンではなく非異性愛者と名乗っているとおっしゃっていたように思います。そこで、「女が好きな女」のあとの方の「女」のところに違和感を感じてるというのは、自分は女だとは思っていないっていう意味だと思うのですが、であれば何としてご自分を捉えてらっしゃるのでしょうか。それからレズビアンという定義は誰が決めるのか、決めるべきなのかっていうのが、ちょっと気になりました。

【グループ8】
私たちのグループでは、異性愛者は非異性愛者のコミュニティの中で、自分が異性愛者だとは名乗らないで関係性を作れるのかって話していたんです。もしカミングアウトしなかったら、その人がLGBTとしてパッケージ化されてしまうのではないか、と思って。「きっとあなたはLGBTだよね」、「LGBTならこういうこと共有してるよね」みたいな空気の中に置かれてしまって、自分っていうのをそこで表現できないで、どうやってそこで関係性を作れるのかなっていうのにすごく疑問を持ちました。それから、お話のなかで「アライ」っていう言葉がでてきたんですけど、それを異性愛者が名乗っていい言葉なのかどうなのかっていうのが、個人的に気になっています。

【グループ9】
「レズビアン」とか「ゲイ」とか名付けると、どうしてもマジョリティとマイノリティにわかれちゃうと思うんです。そのなかで自分に一番合った「人称」、自分らしい人称っていうのはなんですか、っていうのが質問です。

【グループ10】
〈名付け〉による不均衡な非対称性を解決するとしたら、異性愛者、つまり<名づけ>る側がその非対称性を認識することが必須だと思うのですが、そのためにはどのような問いかけが有効だと思いますか。

【グループ11】
なぜ非異性愛であることを名乗らなくてはならないのかっていう問いのところで、社会全体が「異性愛であること」が前提とされている社会において「非異性愛者のふりはできる?できないでしょ?だからあたしたちもつらいんだよ。」っていうふうな例えをされたかと思うんです。でも、「非異性愛のふりをすること」と「異性愛のふりをすること」っていうのは全く別のつらさを生むんじゃないかと思って。だから、「あんたたちできないんだから、あたしたちだってつらいのよ」って言ったときに、十分じゃないのかなって。その点についてお話を聞きたいと思いました。

【講演者による回答】
飯野:はい、ありがとうございました。今ミヤマさんは人気者になってすごく喜んでいると思います(笑)。今日の話は、最初に言ったように、異性愛の人と非異性愛の人とでは構造的に非対称的な関係に置かれてるんじゃないか、そのことによって非異性愛の人は、なんだか名乗らなきゃならないというようなことになってしまっている。そう感じているっていうことですよね。名乗らないと忘れられてしまうんじゃないか、とか、いない存在になってしまうんじゃないか、とか、自分自身として受け入れられてないんじゃないかとかいう感覚になってしまう。だから名乗るんだけれども、とはいえその名付けたり名乗ったりすることも若干重荷(笑)だと。そういう話が後半の話だったと思うんですよね。名乗らなきゃいけないんだけどその名付けや名乗りというものが若干重荷なんだと。このようなジレンマ状況に置かれているという話を今日お伝えしたかったわけで、皆さん、今質問をお聞きした限りでは非常に、そこを上手く掴んでくれたなって思って、素朴に教員として嬉しいなと思っています。「あ、伝わった!」と思って(笑)。
 最後の問いかけ「名付けの未来」のところが質問のなかにいくつか出てきましたけれども、これから先どーするの?とか私どーするの?とか私たちどうすればいいの?というところは、私たちのほうからはまだ出してないんですよね。だからそこはたぶん、後半ちょろっとそれぞれ話せたらなあって思います。
 まず「ミヤマさんに」とか「飯野さんに」って言われた質問の方から、先に答えていきましょうか。じゃあミヤマさん、沢山あるのでどうぞ。

ミヤマ:まずは7番目のご質問について。レズビアンは「女が好きな女」であると言われていたけれども、自分を女と思えないならいったいなんなのかと。レズビアンであるとは誰が決めるのかと、そういう主旨のご質問だったと把握しています。
 レズビアンとは女性を愛する、女性を性的に愛する女性のことである、という定義自体に、私はまったく乗れないんですね。このレズビアンの定義は二重の肯定によって成立しています。性愛の対象を「女性」であると肯定し、それを好きな自分も「女性」であると認める。私はこれら二つの肯定のどちらにも乗れないんですね。1,2年くらい前までは、「レズビアンとトランスジェンダーの交差点にいる」感じ、というふうに自分を説明していました。トランスジェンダーとは、「社会の男女の性別を超えたところにいる人たち」である、というのが、私が好んで使っている説明です。よく「身体の性別と心の性別が一致していない」という説明がなされることがあるんですけれど、それだと「身体的な性別と心の性別は一致してしかるべきだ」という考え方が前提とされているようで、私はそういう説明の仕方は採用していません。自分を女と思えないなら一体なんなのかというと、別に女でも男でもありたくないと思っています。肉体的には確かにまんこ持ちではありますが、じゃあペニスがあるから男、ヴァギナがあるから女、という決め方で本当にいいのか。そうするとインターセックスの人たちはどうなのか、という議論になっていきます。妊娠能力があるかどうかを決め手にするにしても、実際妊娠するまでは本当にその能力があるかどうかわからないわけです。そういう生物学的な性別の規定の仕方には私は乗れないと考えています。
 もうひとつ、ある人を「レズビアンである」と決めるのは、やはり本人しかありえないだろうと思います。他人が自分のセクシュアリティを決めることはできないのではないかと思います。それと同じような意味で、自分の性別を誰かに決められるのではなく、つまり、生物学的に決められるとか法律的に決められるということではなくて、自分で自分の性別を決める、あるいは決めない、ということでいいのではないかと思います。
 8番目のご質問ですが、アライにイラッとくるというふうに確かに私は言いました。非異性愛のコミュニティで異性愛者だと名乗らないで関係性がつくれるかどうかについては、実際、わざわざ「自分は異性愛者です」と名乗らない支援者の人たちと私は関係を築いています。名乗らなければLGBTとしてパッケージされるのでは、というご質問があったのですが、その裏にはLGBTにパッケージされることに対する恐怖があるのかなあとも思います。「LGBTを支援する私は異性愛者です」と言明することになぜイラッとくるのかというと、LGBTを支援するなら、その自分もゲイやレズビアンだと思われてもいい、というふうに思えないのかな、という疑問も一つあるんですね。本人のなかでは異性愛者だと思っていても、仮に他人からそう思われたら、「別にいいよ、自分も支援者だし」っていうふうになぜならないのか、自分が非異性愛者だと思われて何か困ることがあるんだろうか、と不思議に思います。そこにちょっとした同性愛嫌悪を感じるんですね、支援者だと言いながら、なおかつ自分は異性愛者であるエクスキューズをする人には、やっぱり何らかの同性愛嫌悪的な感情があるのではないかと、性格の悪い私は邪推してしまうわけですね。
 それからアライと名乗ることについてですが、名乗る必要があるとご自分で思えば名乗ればよいのではないでしょうか。私はそれを名乗るべきだとか名乗るべきではないとか決める立場にはありません。その名乗りに対して「その名乗りはちょっとね」と批判することはあるかもしれませんが、名乗りそのものを否定することは私にはできませんし、する気もないです。
 11番目のご質問は、異性愛者の振りをするのがしんどいという話と非異性愛者の振りをするしんどさは別じゃないか、非対称的じゃないかというものでした。もちろん私もそう思います。先ほど話した時には、逆の立場を想定して、振りをするしんどさを分かってくれという主張に説得力があるとは自分では全然思っていないんですね。適切なたとえを出せないのはちょっと自分でも苦しいんですけれど。ただ、たとえば、『アグリー・ベティ』というアメリカのテレビ番組をご存知でしょうか。いまDVDが出てるんですけれど、ファッション誌を編集する出版社を舞台にしたお話なんです。そのなかに「ファッション業界で働く男性はゲイでなければいけない!」というエピソードがあって、本当は異性愛者なんだけれども自分はゲイのふりをしてデザイナーをやっているというキャラクターが登場します。ゲイじゃないことがバレたらたぶんこの業界で仕事をしていけなくなる、というような描かれ方をしていて、それは私からみるとなかなか上手いパロディというか、非異性愛者が異性愛者のふりをして生きているしんどさを、立場を逆転させて描いています。それで異性愛者の人たちにそのしんどさが伝わるかどうかは分からないんですけれども、もしご興味があれば観てみてください。

飯野:私に対しての質問は、3番目のグループですね。実は質問の意味がちょっとよくわからなかったのですが(笑)。女を愛する女というパッケージ化のありかたに対して私が、どこにどのように違和感を抱いているか、ということでいいのかな?もう一回違う言葉で質問してくれるとちゃんと答えられるかなって気がするんですけれど。

【グループ3】
「女を愛する女」がレズビアン、レズビアン=女を愛する女っていうのが自分のなかにあったので、そこが違うとなるとわからなくなってしまいますね。

飯野:なるほど。ありがとうございます。すごく一般的な定義として浸透していると思うんですよね、レズビアンとは「女を愛する女」だというのが。多くの人はなんかそこでストップしていて、もうわかった、みたいなつもりになっているんだれども、実際にレズビアンとしてカテゴリー化される…あ、すっごい私いまカメラ目線で喋ってた今(笑)

会場:(爆笑)

飯野:きもち悪い(笑)ごめんなさい。実際に、レズビアンとしてカテゴリー化される女性たち、あるいは女性たちとも言えない人たちっていうのはもっともっと多様なんですよね。さっきちょっとミヤマさんも触れられましたけれども「女を愛する女」としてしまうと、まず女じゃなきゃレズビアンじゃないのかと。もちろん身体的にみたらいやあんた女でしょっていう人でも、性自認として、そのジェンダー・アイデンティティとしては非常にゆらぎを感じている、違和を強く感じているトランスジェンダーといわれている人たちもいるし、トランスジェンダーとまでは自分は名付けないけれども。やっぱり違和感を感じている女性っていうのは結構多いんですね。これはおそらくレズビアンだけの問題ではなくって、異性愛の女性の中にもしっくりきてない人って沢山いると思うんですよね。というのは私たちの文化における「女」っていうものの定義は非常に狭いから。そこからやっぱりはみ出してしまう自分っていうのがいて、私はまあ女だと思ってるけど、その部分では女じゃないと思う、とかっていうゆらぎはすごく感じていて、その多様性をやっぱり見落としてしまう。レズビアン=女を愛する女っていう、それだけで固定的にみると見落としてしまう生のあり方があると思うんですね。そして、問題を感じつつも使ったりする場合もあります、という話です。
 もう1つは、さっきミヤマさんからはその好きになる相手が女じゃなきゃいけないのかっていう問題もあって、それは本当にそうなんですよ。例えば、女だと思って付き合い始めたんだけれどもこう微妙に女だと性自認していない相手だという場合もあるわけですよね、実際に。その時に「女を愛する女」の定義でレズビアンである人は非常なアイデンティティ・クライシスに陥るわけですよ。私は女が好きなはずなのに好きになった相手は女にみえたようで女じゃなかった、みたいな(笑)。それはすごく頻繁に、よくあることなので、その多様性っていうものもやはりその定義からはこぼれ落ちている、と思われます。
 最後に、やっぱ愛するってなによ、と(笑)。同性愛だろうが、異性愛だろうが、まあ恋愛は同じだ、男だろうが女だろうが、愛するって、おんなじことだよ!(笑)っていうような言い方でお茶を濁す人も結構いるけども、愛するってどういうことよと。例えばセックスするだけじゃダメなんですかとか、セックスしなきゃダメなんですかとか、やっぱりもっともっと我々は知らないことが多いはずなのに、そのフレーズで納得してしまおうとすること、納得した気になってしまう、わかったつもりになってしまうっていうことに対して、まあ普段は言わないよ、そんな一緒にご飯食べてるときにがみがみ言わないけど(笑)こういう何か勉強の場だと、そこちょっと考えてみようよ、みたいな感じです(笑)

ミヤマ:(笑)

飯野:なので「女を愛する女」の定義が間違っているとか、それが非常にだめだとかっていうことではなくて、それだけでは捉えきれない多様なあり方っていうのが、実は、レズビアンとカテゴライズされる人たちのなかにはあるんだ、ということです。やっぱりそれを見落としてはいけないと思うし、時に私が一番問題だと感じているのは、こうであれっていう風に要請してくるのは異性愛がデフォルトな世界だけではなくって、その中で存在しているレズビアンのコミュニティの中でも、レズビアンだったらこうでなければならない、っていうような要請/規制的な力っていうのがやっぱりあるんですよね。そこにはやはり抵抗していきたいというか、そうではだめだと、私たちが求めているのはそれじゃないんじゃないか、という話は後でします(笑)。
ということであと30分ありますよ。

ミヤマ:はい。

飯野:世代の話の所は若干ミヤマさんに関わってるかなって思ったんですけど。

ミヤマ:はい、じゃあそれに答えちゃいましょうか。答えになるかどうかわかんないんですけど。2番目のご質問ですね。若い世代はセクシュアル・マイノリティを気にしない人が多い、というのは、この方が抱いている実感としてそうなんだろうなと思います。ただ、さまざまなセクシュアリティがあるということについて寛容なのは、自分に関わりがなければセクシュアル・マイノリティがどこでどう生きていようが構わない、ぶっちゃけどうでもいいというような、ある種の無関心さの表明というふうに感じることがあるんですね。
 また、セクシュアル・マイノリティであると同時に、私は生物学的には女の部類に入るわけで、個人的には自分が女で得したことも損したことも特にはないんですけれど、身近には本人が女性であることですごく苦しい思いをしてきている人たちが結構多かったんです。異性愛中心社会というのはつまるところ男性中心主義社会でもあるわけで、女性は男性より先んじてはいけないとか、男性をサポートすべきみたいな育てられ方、教育を受けてきたりして、身近な女性たちの苦しみが具体的な特定の男性のせいであると言えるかどうかは難しいところですが、個別の関係以前に男性と女性の間には社会的に大きな不均衡が生じているという構造がある。そこから女性の抱え込まされる問題にもすごく関心は高くもっています。
 女性と男性を並べると女性の方がマイノリティ的な扱いをされてしまう。セクシュアリティに関しても、異性愛よりも異性愛じゃない方がマイノリティの扱いをされてしまう。それで女性のセクシュアル・マイノリティというのは二重のマイノリティ性を背負っていると考えられているんです。それで、たとえば「女性に優しい男性」「女性に理解のある男性」というのはどうやら株が上がるらしいんですが、男女の非対称な構造を手つかずのままにしておいて優しいだの理解があるだのなんてちゃんちゃらおかしい、と思うんです。非対称だから、対等じゃないから「優しく」なれるし「理解」も示すわけで、こういう人に限って対等な関係になったらとたんに牙をむくのではないかと警戒します。
 繰り返しになりますが、誰がセクシュアル・マイノリティだろうが自分は気にしない、というようなことを言う人に対しては、寛容さではなく、自分に関係なければ別にどうでもいいという無関心さを感じるんです。「どんなセクシュアリティでも構わないじゃない?」と言っているその人が乗っかっている前提を揺さぶるようなことを言うと途端に怒りだす、という経験がけっこうあるんですよ。だから私は「いろんなセクシュアリティがあっていいじゃない」と表面的に言う人のことはあまり信用はしていません(笑)。疑り深くてすみません(笑)。
 それから、アメリカ人が嫌いだ、と同性愛が嫌いだの違いがなんなのかっていうのも、私もちょっとよくまだ分かってないです。

飯野:質問者の人が言ってたのは、構造において、アメリカ人ってやっぱり利得を得てきた人たちじゃないですか。それに比べると同性愛の人たちっていうのは、構造的には利得を得てきたわけではない人たちなのに、なんで嫌われなきゃいけないの?(笑)みたいな感覚っていうのもあるんじゃないか、っていうような話として受け取ったんですけど。

ミヤマ:たとえば、アメリカ人ではなくて、韓国人が嫌いだ、という言い方だったらどうなんでしょうね。ごめんなさい、自問してたりもするんですけど(笑)

飯野:この辺は今日のこの場で回答が出るわけではないと思うけれども、私は、ミヤマさんがふと言った時に、人種を軸にしたカテゴリー化と、セクシュアルなものを軸にしたカテゴリーがあって、違う部分があるのかなぁって。今の部分だけでも問いがいくつか出ますよね。人種ともいわないで国民国家を軸にしたカテゴリー。同じカテゴリーだとかパッケージ化でも何か違いがあって、こういうパッケージ化とかカテゴリー化はすごく嫌だとかあるのかなって思ったので、そこはこれからの課題ですかね。あ、私の課題か。

ミヤマ:今の質問は、10番目の質問内容とリンクしているかなとは思うんですけど、同性愛者が気持ち悪いことの理由を説明する必要がないとされている。確かにそのブログの感想ではなぜ気持ち悪いかという説明はなされてないんですよ。だからただ「気持ち悪い」というコメントに対して、「あなたは酷いことを言っている」という反応をする人たちもいるんですけれど、「どうして気持ち悪いんですか?」と聞く人もいなかったんですね。気持ち悪いことがお互い自明の前提になっているような。ただ、面白いなと思ったのは、「自分は同性愛者が嫌いだ」と言いながら同性愛者の権利運動を扱った映画を評価するということは、「嫌いだけれどもかれらの権利は当然のものだ」と考えているのかな、と。たいていは「嫌い」だから「いなくなればいい」みたいに、嫌悪の感情が差別を正当化することが多くて、個人の感情や主観と差別を切り分ける思考ってなかなか働きにくいと思うんです。これは10番に対する応答とはまた別にちょっと言ってみたんですけれど。

飯野:じゃあちょっと軽い質問も出たので(笑)。

ミヤマ:どれ?(笑)

飯野:どのようなことをきっかけに、女性を好きになったんですか?

ミヤマ:はーん(笑)

飯野:どこでどのようにして出会うんですか?ミヤマさん。

ミヤマ:あたし!?(笑)。どうしてあたしなの〜ちょっと〜(笑)。由里子はどうなのよー!

飯野:どのようなことをきっかけに女性を好きになったのかは、解んないですけど、どこでどのようにして出会うのかは、まあ色々あるんですよ(笑)

ミヤマ:(苦笑)

飯野:この場がきっかけになったりすることもあるわけですよ。っていうと今はセクシュアル・ハラスメントになるので、気をつけろって言われるんですけど、大学から。まあきっかけは色々と落ちてます。ミヤマさんはどんな(笑)。

ミヤマ:5番目の質問は、ほんとうに素朴な疑問なのだと思うんですけど、喧嘩売るようなことしか言えなくてごめんなさい。じゃあ、あなたはどうして異性を愛するようになったんですかとか、異性とどこで知り合うんですかとか、ご自分はどうなのって聞き返したくなっちゃうんです(笑)。そんなに変わりはないよ、と言いたいんですけど。

飯野:いや変わりはあるよ。うん。出会いにくいのは、事実なので。

ミヤマ:確かにね。出会いにくい。でも何をきっかけに女性を愛するようになったかは、ずっと考え続けてますね。

飯野:あ、そうなんだ。

ミヤマ:なんでだろ、と思って。今のところは、さっきも言いましたけれども、まんこ好きである、っていうことに落ち着くのかなと。暫定的にそう思っています。

飯野:どのようにして出会うのかは?

ミヤマ:どのようにして出会うのかは、それはやはり縁のなせることなので。

飯野:(笑)

ミヤマ:わたくしにコントロールできることはないです、出会いの縁は(笑)。

飯野:ということです(笑)いまミヤマさんが、なんで女を好きになったんだろうって考えることがあるって聞いてちょっとびっくり。

ミヤマ:そうなの?

飯野:私ね、たぶんそんなに考えてないかもしれないのですよね。今の自分のあり方が、こういう言い方はあんまりよくないんだけれども、カギ括弧つきで使うとしたら、「ありのままの自分」かどうかも解らないです。異性愛の人は、異性愛であるっていう確証がほんとはあるわけではないんだけれども、って言ってしまったんだけど、ほんとはそうなんですよ。非異性愛の人だからといって、性に関わる存在としての私っていうものにどこまで自覚的であるかとか、どこまで確信持っているかっていうのはわからないですよね。最初から言っているように、私たちは異性愛がデフォルトな世界に住んでいて、その外にはまだ出たことがないから、その中でのいくつかの可能性のなかで、いま選んでるだけじゃないですか。そうですよね、きっと。だからまた別の全然違う可能性っていうのが本当はあるのかもしれないと思います。だから私自身は、その時々でレズビアンっていったりレズビアンじゃないかもしれないけどよくわからないって言ったり色々ですけど、何かを自覚しているとしたら、恐らく私はこの異性愛がデフォルトな世界の中で、異性愛ではないかもしれないけれども、いずれにせよ、ある特定の方向に方向づけられた存在なんだろう、ということを自覚しなきゃなあと思ってるんですね。じゃないと、なんか、よくあるじゃない?非異性愛の人の方が、実は、異性愛の人よりもこういうことよく考えていて、実は、解放されているんだ。みたいな言説があるけど、私は全く信じてなくって、みんな同じように、異性愛だろうが、異性愛じゃなかろうが、この構造のなかではある特定の方向付けをされてるんですよ。それがまずなんなのかっていうのを、見極めないといけないだろうという。ごめんね、なんか研究者っぽい話して(笑)。でもなんか真面目なことも考えている、お笑いの人じゃありませんっていう意思表示を(笑)。

ミヤマ:(笑)

飯野:だから最初のチームからも出た、わざわざ名乗る必要がないのが理想なんですか?とか、やっぱり自分にあった名称って欲しいんですか?とか、名付けをなくすだけではだめなんじゃないかっていう意見もあって、私もそうだと思っているんですよね。いずれにせよ私たちはジェンダー、男であるか女であるかとか、異性愛であるかそうじゃないか、っていうように、性に沿って自分自身を形成しているというかコード化しているし、そうせざるを得ないような世界の中に生きてるわけですよね。だけど、今以上にもう少し自由に、実験したり探索できたらいいなって思うんです。私が、どのような相手と、それは複数人かもしれません、この異性愛がデフォルトな世界っていうのは実は異性愛で単婚じゃないとダメなんですよ。一夫一婦制みたいな。相手一人じゃなきゃだめで、なんか二人いたらそれを「ひどい人」って言われるんだけれど、なんでひどい人だと思うのか、どうしてその選択肢を私たちはダメだと思ってしまうのか、とかね。いろいろ考える素材ってあるじゃない?そこをやっぱりもう少しちゃんと考えたいなって思うし、私が、誰とどのような親密な関係をつくっていきたいと思っているのか、そのやり方はすごく多様であっていいはずなので、それを模索したいけれども、いまはその自由がないと感じているところがある。やっぱり出来ないものっていうのもあるので、最初のいくつかのグループから出た質問に答えるとすると、名付けをなくすだけではだめなんじゃないか、私もそう思っています。一方では、私たちっていうのはある種自分自身で自分を名付けていく存在なので、名付けってどっかで不可避な部分があるんじゃないかなって私は思っています。名乗る必要がなくなるっていうのは、たぶんミヤマさんの方が答えられると思うんだけれども、どういう関係性を築いていきたいのかっていったら、単に異性愛とか非異性愛とかの関係だけじゃなくって、セクシュアルな私として、みんなセクシュアルな自己なわけですよ、その自己っていうものがどうありたいのかっていうのを私自身が考えていく。それを最大限考えていけるだけの自由を獲得していくっていうのが、私の目標で、そのためにセクシュアリティ研究とかやっているわけですよ。研究者としては。その可能性をどう私たちは考えていけるかという。ちょっと最後は難しい話になりましたが、この対談だけにきている人もいるらしいので、ちょっとサービスしてみました(笑)
 ミヤマさんの方からもなにか、質問に対して言いたいこととか。

ミヤマ:対談の最後の名乗りの未来について、ちょっと補足します。わざわざ名乗る必要のない関係が居心地がいいと最初に言いましたが、ただそれは「言わなくてもわかってるよね」の「わかってる」中身が異性愛前提なのではなくて、いろんなセクシュアリティがあることが前提となっていれば、わざわざ名乗らなくてもいい居心地の良さがあるし、そうありたい、そういう関係を築いていきたいと思っています。もしも自分が異性愛者、ヘテロセクシュアルだったらどうだったのかという仮定はあまり意味がないかもしれないけれども、たとえばこれがセクシュアリティではなく、さっき人種差別の話が出ましたけど、それに置き換えれば、たとえ自分が差別されるターゲットでなくとも、「人種差別はよくない」ということは理解できると思うんです。差別を受ける当事者じゃないからわからない、ということにはならないんじゃないかと思うんですよね。それがセクシュアリティになると、自分はゲイやレズビアンの人たちを知らないから、会ったことがないからわからない、というような理由で、けっこうひどいことを言う人がいるんですよね。でも、そこをもう少し想像力を働かすことはできないのかなあと思うんです。ただ、そこで働かせる想像力とは、「LGBTの人たちはこうなんだろう」というパッケージ化に繋がるような勝手な決めつけではなくて、わからないもの、についてわからない、ということを尊重する方向にはいかないのかな、と思います。わからないことってすごく不安だとは思うんですよ。曖昧でいること、曖昧さに耐えられない不安はあると思うんですけど、じゃあ自分の不安を解消するためにわかった気になって安心することが、当事者にとってはとても迷惑だったり厄介なことだったりするんですね。想像力を使って考えるとは、自分がまだわかっていないものに対して尊重する余白を残すことだと思います。あんまり補足になってるかどうかちょっとわからないんですけれど、そんな感じです。
 あと10番、これけっこう(笑)かなり高度な質問だと思うんですけれど。異性愛者側が同性愛を気持ち悪いと思う理由を説明する必要がないという、フォビアがデフォルトになっていると。嫌悪がデフォルトになっているから、嫌悪の内容や理由を説明する必要がないと。始めから自分が異性愛者として扱われていると、自分が異性愛者であることを証明しようがない。自分を問い直すきっかけがない。その名付けの非対称性について、フォビアをデフォルトとしている側が考え直すきっかけやヒントはないですかっていう…。

【グループ10】
なにかそのヒントとか、良いアイデアとかないかなと思ったんですが。

ミヤマ:知りたいよねー。私も知りたいですそれ(笑)なんかありますか?

飯野:うーん、どういう立ち位置から答えればいいんだろう(笑)研究者の立ち位置からでいいのかなあ。つーか相対化しろよって思う(笑)。素朴に。ホモホォビアがデフォルトだっていうのはたぶんそうだと思うんだけど、ミソジニーもデフォルトだと思うので。これついて来てるかなみんな(笑)自分が異性愛の人だからって、これって無関係な話ですかって思うわけですよ。その異性愛でない人たちに向けられた偏見とか、具体的な差別とか、そうした嫌悪感をめぐる問題っていうのは、その人たちだけの問題じゃなくって、異性愛の人たちの問題でもあるでしょ。だってこの世界を構成しているのはわれわれみんなのわけだから。だからなぜそこをちゃんと考えないのかなって、素朴に、不思議に思うし、だれも、いまの話だとだれも聞かないっていうことが問題だよね。

ミヤマ:聞かない。

飯野:うん。私もミヤマさんが「ミルク」の話をした時に「えっ、なんで?」って思ったの。別に同性愛者が嫌いです、って書いてあったっていうので、なんでって思ったしたぶん第一声それだと思うんですよね。そっからじゃないと、始まらないかも。え、なんで?なんであなた嫌いなの?って。その質問を投げかければいいんじゃない(笑)って思うんですけれども。それだけではうまく突き破っていけないものを感じますか?感じているってことなのかな?なんで嫌いなのっていうと、みんなどう答えますか。

【グループ10】
そう言ったときに、その疑問自体がマイノリティ性をもつっていうこともありますよね。発したこと自体が。

飯野:自分が異性愛ではない人間として表明してしまうということ?

【グループ10】
支援することによって、他のマジョリティ側から受ける不利益と同じように、そういう質問を出すこと自体が、不利益を被ることになる。

飯野:そうです、guilty by associationの証ですよ。そのように擁護しているっていうことは、まあそのような質問をするってことはお前もそうなんじゃないかっていうかたちで攻撃を向けられたり、嫌悪の対称となったりするっていうことですよね。だからみんな怖がって、え、なんで?って思っていても知らんぷりをして、私は気にしないけど、っていうスタンスを取っていく、っていうことでしょう。ミヤマさんのような短気な人はそこにイラっと感じて、吠えてしまうっていう(笑)ことなんだと思うので、もっと素朴に疑問に思ってよって思うだけです。

ミヤマ:さっきのアライの話の話と繋がりますよね。「LGBTを支援します」という人たちは基本的には優しいんです。でも支援のしかたがすごく消極的だと思うんです。たとえば、職場や学校における同性愛嫌悪的な言動をどうやってなくしていくかについては、セクシュアル・ハラスメント対策に学ぶところが大きいと思います。女性たちが職場において、それは性的な嫌がらせです、と言いつのりつづけて、セクハラする側からすれば「ちょっとしたジョークじゃないか」みたいに軽く受け取られていたのが、女性たちが本当に嫌なんだ、それを改善してくれないときちんと気持ちよく精神的に安定して働けないんだ、と訴えて、セクハラ対策がとられてきたんですけど、セクシュアル・マイノリティが職場や学校で差別的な扱いをされないようにするノウハウとして、セクハラ対策のやりかたは使えるんですね。ただし、その場合の支援の仕方は現状のアライよりももっと積極的な関わり方なんです。たとえば職場で誰かが同性愛嫌悪的な発言をしたらそれをメモっておく。いつ、だれが、どういう言動をはたらいたかメモっておく。そういう記録を労働組合があればそこに訴える、なければそれに準じたセクションに訴える。そういう積極的な支援が必要になってくるんですよね。でも、「私はアライです」と言っている人たちって、そうやってマイノリティ相手に名乗る以外にいったい何をやっているんだろうか、と思います。それこそホモフォビックな発言をする人がまわりにいたら、なんで? ってツッコむ役割をぜひやってもらいたいなと思います。

飯野:うーん。でもアライの人は、LGBTコミュニティに関わることでひょっとしたら自己をみつめるきっかけみたいなものを得ていく可能性はあると思うんです。「私たち異性愛の人たちはどうすればいいんですか?」っていう質問に対しては、いや自分自身をもう少し見つめてください、としか答えようがなくて、どうして欲しいわけでもなく、もう少し自分自身を見つめ直して欲しいよなって思うんですね。
 あともう5分なのですが、(笑)実は言いたかったことが沢山あって、沢山言えなかったんですけれども、私どう頑張っても非異性愛者になれないと思います、っていう人もいると思うしそれで良いと思うんですよね。だって異性愛であることが悪いとか言っているわけではなくって、それぞれがセクシュアルな、性的な存在として、どう自分自身をつくり上げていくのかっていうことが問題で、そのなかで異性愛というカテゴリーであったり、レズビアンっていうカテゴリーであったりゲイというカテゴリーであったりするだけのことなんです。それよりも、私が研究者として関心をもっているのは、この話が非常に奇妙なことに、これまで語る側、語り手あるいは書き手側だけにフォーカスしすぎたんじゃないかなって思うんですよね。聞き手側、読み手側の問題はどうなのかっていう位相があまりきちんと論じられてこなかったよなって思うんです。今日話した話をもうちょっと簡単にまとめると、異性愛がデフォルトの世界があって、そのなかではある種の人々が非常に生きづらさを抱えていたり、自分が存在していてはいけないもののように感じていたりすると。それに抵抗するために、ゲイというカテゴリーが生まれたり、レズビアンというカテゴリーが生まれたり、それを用いて自己表現しようとする人たちが出てきたわけですよね。まさに自己表現なわけですよね、カテゴリーを用いて自己表現をする。でも、今度はそのカテゴリーの内部で、レズビアンだったらこうじゃなきゃいけないでしょう、とか、こうあるべきでしょ、っていう風に、ある特定の振る舞いやあり方を方向づけるというか、特定の方向に向かわせるように働く力が出てきてしまっている。これが問題だと感じる人もいる。例えば私がこうやってみんなに対して喋っているはずなのに、カメラが一台あるだけで、カメラの方向に方向付けられているわけですよ(笑)。ほんとにたぶんもっといっぱい可能性があって、いっぱい人がいるのに、カメラってすごい存在感あるからどうしてもそっちに向いてしまうみたいな形であると。一生懸命みんなこっちのグループもありますよーって私を引き込んで、私も向こうに向かっているんだけれども、どうしてもこっちに向いてしまう私がいる。これが異性愛です(笑)たぶん。

カメラ:(笑)

飯野:このある種の二重の規範。二重っていったらおかしいかな、そのデフォルトなものとしての規範と、コミュニティの内部での特定の振る舞いを要請されるという規範があって、そのどっちにも生きづらさを感じている人たちっていうのも今それなりの数出てきていて、それじゃやだよ!っていう風に言っているんですよね。それと同時に、若い世代なんて特にそうなのかもしれないけれども、そもそもそういうカテゴリーに当てはめること自体が嫌だっていう人もいると思うんですよ。けれども同時に、やっぱり名付け名乗りって無くせばいいってものではないんじゃないのっていう話があったように、自らをゲイとかレズビアンとか名付けることで、そのように名乗ることで、今まで語れなかった経験とか、何かが語りやすくなるとか、表現しやすくなるとか、そういう人はまだまだ沢山いる。両方の人が沢山います。じゃあどうしていきましょうって。ここで、私はやっぱり聞き手の位相っていうのをもう少し論じないといけないと思っています。というのも、名乗りにかけている何かっていうのは、人によって違うと思うんですよ。人によってはベタにレズビアンと信じていて、そう名乗っているだけなのかもしれないけれども、もう少し違う何かをみなさんに伝えようとしているのかもしれない。その何かっていうのは人によって異なるし、異なって当たり前なわけだから、聞き手の側がそれをもう少しちゃんと捕まえようとしないと、カミングアウトっていうものを非常に表面的に捉えてしまうんじゃないかなっていう風に思います。なので、異性愛の私たちはどうすれば良いんでしょうか?という質問に対しては、じゃあまず、今日私たちはそれぞれのやり方でたぶんカミングアウトしたんだと思います。「私は○○です」とは言わなかったかもしれないよね。それをあなたがどう受け取るんでしょうか。そこで、私たちが何を伝えたかったのか。メッセージとして何を発しようとしていたのか、っていうのをどう捕まえるのか。それはたぶんみなさんに与えられた宿題なんじゃないかな、っていう風に思います。

ミヤマ:すごーい、さすが上手くまとめたねー、大学教員(笑)

飯野:あっは(笑)

ミヤマ:あとどれくらい時間あります?

飯野:ごめん、使っちゃった(笑)

ミヤマ:今、由里子がいったように、名乗り、名乗ることで何かを語りやすくなるっていう方向性は私もとても大事だなと思っていて、さっき例示した「都合の悪いネーミングをあえて引き受けます」というのは、傍目から見ていてもすごくしんどい名乗りだなって思うわけですよ。一面ではしんどくても、そう名乗ることでその人がなんらかの力を得たり、肩の荷が降りたり、楽になったりすればいいなと思います。現状に不満や違和感や理不尽さを感じるとしたら、その現状を変えていくためのきっかけとしての名乗り、という方向性で模索していきたいなと思っています。いま私たち壇上から喋っていますけど、答えをあらかじめ持っているわけではないので過剰な期待はしないでくださいね。みなさんが悩んでいるように、私たちも悩みながらこうじゃないか、ああじゃないかと考えているので、一緒に考えていきましょう、ということしか言えなくてすみません。と謝罪しつつ終わります。

会場:拍手    

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