ICU留学生 : カーラ・フランティーニ
【CGS News Letter003掲載】
2004年10月20日(水)、ICUでイギリスのブリストル大学のテリル・カーバー教授による「セックス、ジェンダー、セクシュアリティ:メタファー/言説/政治」と題された大変刺激的な講演が行われた。セックス・ジェンダー・セクシュアリティの概念が持つ歴史、またこの10年に見られる質的変容に関する論議に続いて、これらを互いに独立したコンセプトとせず、相互に関連した問題として捉えることの重要性が論じられた。講演では、具体的な事例が数多く取りあげられ、伝統的なセックス・ジェンダー・セクシュアリティ観を疑問視する現在イギリスで進行中の二つの法案についても触れられた。
イギリス,ブリストル大学のテレル・カーヴァー教授は,自身の紹介にあたってジュディス・バトラーの著書,「ジェンダートラブル」と「Undoing Gender」の影響を隠さない。R.W.コンネルの「Masculinities」からもかなりの影響を受けたという。
カーヴァー教授は,セックス、ジェンダーとセクシュアリティは,関連的な概念としてまとめて取り上げるべき問題だと主張する 。その裏付けとして,過去10年間におけるこれらの概念の変容が示された。
セックスは従来生物学的事象として捉えられ,ジェンダーも生物学的性に従って規定されてきた。しかし,現在では,性転換の可能性や性染色体における変異形の存在,ホルモン分泌過多,生殖能力を持たない人々といった事柄に対する認識が進んでいる。生物学的区分が明確さを失ったと感じられるようになったし,それが明確であることを望まない人々もいる。なぜなら、自身の生物学的形態がもつ曖昧さを好むからである。また、「親」というコンセプトを表すために使われている言葉(母・父・卵子母・精子父・代理母・養母・養父など)が最近増加し、困惑を招くようになった。
ジェンダーはセックスと社会によって規定される行動パターンであるとされてきたが,ジュディス・バトラーの「ジェンダーは反復的社会行為の投影」という主張がこれを変えた。ジェンダーはパフォーマティヴな概念なのだ。男女の性差は,私たちが語り継ぎ支持し続けているため概念として存在する。私たち自身が力の関係を補強し,男性優位の権力構造を疑問も抱かずに受け入れているのだ。
セクシュアリティはゲイ解放運動によって変容した。現在では同性婚などの多様な性行動に対する社会的受容が進みつつある。人々は,正常・異常,合法・違法はいかに規定されるのかという問題への答えを本や宗教の中に見出そうとしている。
カーヴァー教授は,セックスとジェンダー,セクシュアリティは個別の存在ではなくまとまった概念として考えるべきだとする。複雑に絡み合った相互性が個別的考察を不可能にするのだ。この主張への理解を助けるために,イギリスで現在審議中の二つの法律が例として取り上げられた。一つは"ジェンダー・リアサインメント法"と呼ばれるもので,ジェンダーの変更に際して必要になる法手続き(例を挙げると出生証明書,結婚証明書,養子縁組に関する証明書等の変更)に関するものだ。この法律では,人は「ジェンダーのもとで"successfully"に生きるべき」であるとされる。カーヴァー教授は,誰がいかなる基準で他者の生について"成功"かそうでないか判断をくだしうるのか疑問視するが,この点はさておくと,問題の法は個人が自己のジェンダーを選択し、過去の記録を消去し書き換えることを可能にする。もう一つは"シビル・アソシエイション法"と呼ばれるもので同性間婚姻者が対象になっている。これは伝統的な婚姻に対して認められてきた税の控除などの恩典を同性間結婚にも適用するというものだが,離婚に関しては困難かもしれない。カーヴァー教授はこの二つの法律を面白がるだけではなく、そこに見られる相互矛盾に批判の眼を向けているようだ。つまり,同性間結婚にのみ適用されるシビル・アソシエイション法は,すべての婚姻形態に対して適用されるべきではないのか。あるいは,個人に自己のジェンダーを選択する自由を保障するジェンダー・リアサインメント法の趣旨に基づき,同性間結婚を合法化すればすむ問題ではないのか,と。
講演の中では男性とマスキュリニティに関する問題も実例と共に取り上げられた。「なぜ男性は権力を握り続けることを許されているのか?」を問うとき,どう答えるのか。世界的に見て,暴力的行為の多くは男性間で起こるものだが,大量破壊主義的な近来の状況において,そのような行為が女性や子供に対しても向けられることが増えてきている。カーヴァー教授は次のように考えていない。顕在化および陰在化されたジェンダーという観点から考察すると,男性は「ジェンダーについて考えない。」男性は"人間"と呼ばれる。男性が正常で,女性は異化されたものなのだ。男性はその気になれば父親にもなれるが,それ以前に,まずヒトとして,抽象的な主体としてある。フェミニストは,この正常で抽象的な人間主体としてのヒトに女性は含まれていないことを明らかにした。
講演を締めくくるにあたってカーヴァー教授は,自然と不自然,女性と男性,伝統的と革新的といった言葉のグループを使った興味深いチャートを提示した。それによると,人はチャートの中心部に近づけば近づくほど安心と安全を感じ,変化の軸の両端へ近づけば近づくほど不安を感じるようになる。チャートにはさまざまなグループの人々― 家庭に留まる父親やイエス・キリストなど― が取り上げられており,セックス,ジェンダー,セクシュアリティという観念の曖昧さ,個別化の困難さを理解するよい助けとなった。
カーヴァー教授の講演のスタイルはとても魅力的で、実例を数多く取り上げ、観客に色々な疑問を呼び起こしてくれたと思う。