ICU大学院 : 東 志保
【CGS News Letter003掲載】
2004年10月14日(木)、東京外国語大学で、トリン・T・ミンハの新作「Night Passage」の上映会・講演会・及び札幌大学の今福龍太教授(文化人類学)と立命館大学の西成彦教授(比較文学)とのディスカッションが行われた。ミンハは、ポスト・コロニアリズムとフェミニズムの立場から、彼女自身がもつ複数のアイデンティティ(ヴェトナムで生まれ、フランスとアメリカで学び、セネガルで教える)を利用し、アイデンティティの複数性の問題について、映像・詩・音楽・著作活動で表現してきた。カリフォルニア大学バークレー校で映像論の教鞭もとっている。私は映画、とくにフィクションとドキュメンタリーの境界の問題について関心があるので、ジャンルに頼らない映像作家ミンハについて知りたくて、参加した。
このイベントに出席して私が強く感じたことは、ミンハが複数性や多義性に向けての映像の力を信じているということである。新作は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を映像化したもので、ミンハは、賢治の小説のもつトランスカルチュラルな要素に強く惹かれたのだという。例えば、彼の小説には、アメリカの地名やイタリアの人名が日本を舞台に登場し、空と大地の境界や動物と人間との境界を疑問に付すなど、“国境”や“相違”を越えたモチーフが多く見られるという。
ここで彼女が強調するのは、あくまでもトランスカルチュラリティーであり、マルティカルチュラリティーではない、ということだ。マルティカルチュラリティーは、多様性や混合を意味するが、トランスカルチュラルリティーは、異質なものとの遭遇や、その相違を乗り越えることを意味する。賢治の小説世界では、多様な文化的要素が散りばめられ、その結果相違は共存し、乗り越えられているのである。
映画では、賢治の小説世界は、カリフォルニアに置き換えられ、主人公も女性に置き換えられている。主人公とその女友達は、夜汽車に乗る旅に出る。その途中で様々な変わった出来事に出会い、旅の最後に女友達は死に、代わりにずっと失踪していた母親が主人公の家に戻り、映画は終わる。カリフォルニアはトランスカルチュラルな場所の象徴、女性主人公への置き換えは、賢治小説における「母親が父親の帰りを待つ」という型にはまった性別役割分業に逆らうためである。このように、ミンハの真骨頂ともいえる“枠にはまったアイデンティティ”の攪乱はこの映画の中にも随所にみられる。しかし、私がより注目したのはミンハの映像への考え方である。
映画は、赤や青の窓が並んだ列車を映すシーンではじまる。列車とは、通過していくものであり、それはこの映画のタイトル「Night Passage」に表されている。ミンハは、Passage“歩くこと”は、単線的な目的を持ったものではなく、その動きそのもののことだという。ぶらつき、彷徨うこと。歩きそのものを楽しみ、その出来事性を自分自身のものとしてとらえること。このような身体感覚は、映像が表すことが出来る一つの醍醐味なのである。現に、動作を動作としてそのまま楽しむことが映画の在り方だとミンハは言う。実際、映画の途中で出てくるデジタルカメラで撮影された無国籍風のダンスの映像には、トランスカルチュラリティーが象徴されている。しかしその一方で、動きそのもの・ダンサーが回す松明の火そのものの美しさが捉えられている。そして、この映画にははっきりとしたストーリーラインはみられない。映像は、パッチワークのように散りばめられている。このように、それぞれのシーンに等価な意味をもたせ、単線的な物語構造から脱却することで、動きをそれ自体として私たちに提示することを可能にしているのである。
つまりそれは、事物を一義的に示そうとするジャーナリスティックや広告的な映像とは全く違うもの、多義性や複数性を喚起させる映像なのだ。詩的な映像と言い換えることもできるだろう。それこそがミンハの目指している所なのではないだろうか。そして、直接的な意味しか持たない記号としての映像が巷に溢れ返っている現代において、このような映像の可能性に真摯に向き合う姿勢が、ミンハを重要な役割をもつ映像作家とならしめているのではないかと私は強く感じた。