勝者なき戦い:中国版「負け犬論争」

ICU大学院 : 朱恵文
【CGS News Letter003掲載】

 日本で酒井順子著『負け犬の遠吠え』というエッセイがベストセラーになり、「負け犬」という「未婚、子ナシ、三十代以上の女性」を指す言葉が流行したのをきっかけに、「負け犬論争」が盛んに行われている。それとほとんど同じ時期に、隣の中国では、「中国式離婚」というドラマが大きな反響を呼び、「夫婦関係」や「妻のあり方」といった「勝ち犬」の話をめぐって議論が行われていた。

 ドラマ「中国式離婚」は、ごく普通の都会の男女の結婚生活を描写したもので、主人公は30代の共稼ぎ夫婦である。夫・宋建平(Song Jianping)は国営病院で働く有能な外科医者、妻・林小楓(Lin Xiaofeng)は優秀な中学校教師だ。二人は、七歳の息子と三人で暮らしながら、別居している親の世話もしている。生活は比較的安定しているが、高学歴で医療技術も抜群な夫がなかなか出世できないことに、妻の林は不満を持つ。そんな時、あるきっかけで、宋が私営病院に転職する。収入は大幅に増えるが、仕事が非常に忙しくなり、家事と子供の世話は林が一人で背負うことになってしまう。教師の仕事が大好きな林だが、家庭と両立できないことに悩んだ挙句、仕事を辞め、家庭を最優先するというのが粗筋だ。ドラマの中では、妻に支えられた宋は、新しい職場で才能を存分に発揮でき、さっそく主任医者に昇進する。その一方、専業主婦になった林は、退屈と不安を抱え、夫の成功を喜ぶと同時に、夫のことを疑い深く監視したりしはじめる。理性を失った林の言動に、宋が強い反感を覚えた結果、ほかの女性の魅力に惹かれて、夫婦関係がますます危うくなってしまう。不倫疑惑などでますます仲がこじれた二人は、とうとう離婚する。

 あるインタビューで、「中国式離婚」の作者王海?(Wang Hailing)は、主人公の遭遇についてこう述べた。「ドラマの主人公である林のような妻が、家庭のために自分を犠牲にする道を選択したとき、彼女は望ましくない結果が生まれるかもしれない覚悟を持たなくてはいけない。ドラマの中で、個人の自立性を失った林は、夫と子供の愛情だけに頼れば頼るほど、不安と欲求不満が高まる。いったん不満を感じだしたら、泣いたり、喧嘩したり、理性を失ってしまう。だから、離婚は、彼女が自分で選んだものといってよく、その結果を受け入れるしかない。つまり、離婚は、妻の「自己責任」なのだ」

 ドラマの中で、家庭の崩壊に直面した主人公の妻は、自己責任を問われた。確かに作者のいうように、仕事を辞めたのも、家庭のための自己犠牲も、彼女自身の選択だっただろう。離婚の原因も彼女が理性を失ったことにあるのかもしれない。しかし、私が疑問に思うのは、すべての責任を妻に負わせるのは公平ではないのではないかということだ。家庭のために、育児や親の世話のために、夫の仕事を支えるために、自分の大好きな仕事まで犠牲にしたのは、100%妻自身の選択だと言えるのだろうか。

 ある女性雑誌の編集者がこの作者に対して「もともと大変な女性に、こんなに厳しくていいのでしょうか」と文句をいった。作者はこれに答えて「女性は確かに大変だが、男性はもっと大変だ」と言ったという。男性には「強くなる」道しかないのと比べ、女性はまだ「良妻賢母」と「ビジネスウーマン」という二つの選択肢があるからだ、というのである。また作者が「選択」という響きのいい言葉を出したが、私は敢えて選択したくないと思った。人間には、無限の可能性があるのに、なぜ女性だけが家庭と仕事どちらか一つしか選べないのか。一つを選ぶことは、もう一つを捨てなくてはならないことを意味する。それは、誰が決めたことなのだろうか。男性はこんな選択をさせられてはいないではないか。

 『負け犬の遠吠え』にも同じことが書かれていた。女性は、家庭と仕事のうちの一つの世界しか選べないことが大前提になっており、学歴も収入も高い仕事の世界を選んだ女性は、男性が受け入れがたく感じ避けられた結果「負け犬」になる。一方、家庭を選んだ女性は、男性の成功によって幸せになり、「勝ち犬」と呼ばれる。つまり、女性はもし勝ちたい、幸せになりたいと思うなら、家庭を選ぶしかないのだ。そして家庭を選んだら、それを最優先するしかない。ここでは女性は選択の自由を与えられていないように思える。選択の自由がないのに、責任だけ問われるなんて、不公平ではないか。

月別 アーカイブ