報告:シンポシオンワークショップ「性教育と性教育バッシング」

ICU学部 : 川坂和義

0505004a.jpg 5月18日にICUジェンダー研究センター(CGS)の後援によって、ICU初のLGBIT(レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、インターセックス、トランスジェンダー)サークル・シンポシオンによる第1回ワークショップ「性教育と性教育バッシング」が行われた。発表者として東京都立大学社会学研究科博士課程の金田智之さんが招かれ、約30分「『道徳的性教育』とその問題点」というテーマで発表を行い、その後、学生との質疑応答が行われた。

 金田氏は、性教育バッシングの例として東京都議会(2003年7月2日)の土屋都議の指摘を引用して説明を行った。土屋都議の現在の「過激」な性教育への批判は、具体的には、小学校の理科の授業で性交の方法を説明したことや、性器が映った出産ビデオを児童に見せようとしていたこと、養護学校で性器の名称が含まれる歌を性教育の一環として歌っていたこと、性器のついた人形を教材として使っていたことなどに対して行われた。金田氏はこれらの批判の問題点として、性器の名称が含まれている歌に関しては体の名称の一部として含まれていたのであって強調されていなかったこと、そして現実に若年層の性感染症が増えている(2004年度の高校生に対する調査では、性交経験者うち男子7.3%、女子の13.9%がクラミジアに罹患していた)ためにコンドームの使用法などの性感感染症予防の教育が必要であることなどを挙げた。これに加え、金田氏は「性教育批判」が主張する「過激」さや「適切」さの基準が不明確であり、「道徳」が何を指しているか言明されておらず、「性教育」を批判するがその代替案を提出していないこと、そして現実社会の変化によって過去のような「性道徳」そのものを支える自明性と共同性が喪失してしまっていることを指摘した。 

 私の理解するところでは、金田氏の「性教育バッシング」への批判の中心は、彼らの捉える「道徳」の内容が不明確であることと現在の社会を反映していないことだと思われる。だが、「性教育バッシング」を唱える人々にとってこの批判は有効だろうか。現在の社会を反映してないという批判に対しては、彼らはおそらくよりよい未来を作りだすための教育であり、現在の社会の乱れた風紀に反映させることはむしろ害であると答えるだろう。現に2005年3月5日の朝日新聞の記事に掲載された過激な性教育へのコメントとして中山文科相の言葉を引用すると、「子どもたちの発達段階に応じてきちんと教えるべきだ。行き過ぎた性教育は子どものためにも社会のためにもならない」と述べており、性教育は社会との強烈な連関で語られている。性教育に対するのと同様に歌舞伎町を代表とするような風俗店への締め付けも厳しくなっており、この動きは一貫している。彼らにとって現在の社会は我慢できないほど乱れており、治安の不安定化の原因は性の問題にあるらしい。また、「性教育バッシング」の唱える「道徳」という言葉が不明瞭であるという批判は、アカデミズムの中では批判として成り立つであろうが、実際の社会ではその不明確な「道徳」が大きな説得力を持つのも事実である。むしろ私たちが考えなくてはならないのは、なぜ実質的内容を持たない「道徳」という言葉がこれほど大きく受け入れられるのか、ではないだろうか。

 私自身答えなど持ち合わせていないのだが、自戒をこめて述べると、性教育バッシングの問題はもっと大きな枠組みの中で考えていく必要があるように思える。「性教育バッシング」を唱える人々の論理の中で語ることは、彼らの利益にさえなるのかもしれない。「性教育バッシング」と「性教育擁護」の二つの言説は、一見して噛み合ってないことが分かる。「性教育バッシング」を唱える人々は、理念ばかりを唱えるが、この理念によって「社会そのもの」を「改善」していくことを主張する。彼らの言葉の中に、子どもの実情を考慮したものを見つけることは困難ですらある。私には彼らの目的は、「治安」であるように思える。一方、「性教育擁護」の人々は、実際の社会の実情と子どものリスク回避や自己防衛を焦点に語る。この交わることのない二つの言説を、バッシング派は過去の保守と左翼の構図として描こうとする。「性教育擁護」の人々は、あのソ連や北朝鮮の体制を擁護し、現実的な問題に取り組むことなく夢物語のような革命思想に浮かれた旧左翼の生き残りであり、その主張は革命思想の名残なのだと。どう考えても性教育から共産主義革命も社会主義も導かれそうにはないのだが、治安と性が不可分であるという問題構成をする彼らは、性教育を子どもたちに施そうとする人々が治安を乱し革命に導こうとする者たちとして映るらしい。そして問題は、「性教育擁護」の人々も正面からバッシング派の論理に立ち向かわず、自己弁護に終始してしまうか、バッシング派の意見を嘲笑と共に切り捨ててしまうために、不本意に描かれる「保守」と「左翼」というアナロジーに正面から答えていない。私には、「性教育バッシング」を支持する人々は伝統的な旧左翼アレルギーから彼らの主張に飛びついているように思える。そしてこのアレルギーのために、性道徳を説くバッシング派の主張が、性を治安に結び付け、国民を性という直接的な身体の次元で管理しようという国家社会主義や共産国の全体主義思想そのものであるという事実を、バッシング派支持者たちは見落としてしまうのである。バッシング派は、理念を現実に先行させ現実社会を見落とした旧左翼の過ちをそのまま体現しており、まさしく旧左翼的になっている。「性教育擁護」の人々が切り捨ててしまう「保守—左翼」のアナロジーは、「性教育バッシング」の人々にとって自らを違った像に偽ることができる最も有効な宣伝手段なのである。

 このようなバッシングの人々に正面から答えるには、私たちももう一度社会を問題にしなくてはならないのではないだろうか。「いや、私たちこそ社会の問題を考えているではないか」と、性教育の問題に真摯に取り組んでいる人々に怒られるかもしれない。私も彼らこそ社会を考え抜いているということに同意見である。だが、彼らは、社会像を描くことには成功してないし、切実な問題として「保守」「左翼」の構図の変革や、新たな「左翼」像を作り出すこともしてこなかった。私たちは、性教育が単に教育の中で語られるのではなく、「治安」の問題として語られることを警戒し、同時にこのバッシング派が唱える「治安」は、往々にして法律の枠外に作られていくということに注意をむけながら、これらを社会の問題として正面から答えなくてはならないのではないだろうか。

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