ICU大学院 : 鈴木直美
【CGS NewsLetter 004掲載】
2005年5月27日(金)、ICUにて、学科間専攻のジェンダー・セクシュアリティ研究プログラム(PGSS)の発足を記念して、東京大学大学院人文社会系研究所教授上野千鶴子さんの講演会が行われた。タイトルは「ジェンダー/セクシュアリティ研究に何ができるか?」 田中かず子先生から「初心者からすでに勉強をしている人まで」満足させるような講演をという依頼があったということで、日本におけるジェンダー研究の成り立ちから、ジェンダーとは何かといったことまで、フェミニズムの理論をやさしく解説される形で講演は始まった。次いで、ネオ・リベラリズムの仕掛けるさまざまな罠を解説され、その中でジェンダー研究には何ができるかという核心に迫るとともに、セクシュアリティの領域における有意義なアドバイスまでいただくという内容豊富な二時間だった。
ICUの学部に在籍していた頃、今から6年ほど前には、教育学部の学生でも気軽に受講できるようなジェンダーやフェミニズムに関する授業はまだ少なかったので、ジェンダーについて学びたいと思ったもののなかなかそのチャンスがないのが実状だった。コースで学ぶことをあきらめ、仕方がなく独学し始めた私は、手始めに入門書などにざっと目を通し、それらのビブリオグラフィーの中からとりあえず有名な人の著作を拾い集めて読んでみようと考えた。上野千鶴子さんの著書は社会学関連ですでに何冊か読んだこともあってなんとなく入りやすいように感じたので一番初めに取り掛かったのを覚えている。このようにして勉強を始めた自分としては、今回の講演内容自体は特別目新しいというわけではなかった。しかし、それにもかかわらずこの講演中、何度も何度も目からうろこが落ちる思いがしたのは、上野さんがこのときに繰り返し仰った、「理論は後でいい、腑に落ちればいい」ということと関係しているのではないかと思う。なお、講演の全容は別ページに報告されているので、今回は、「自己決定」をキーワードにレポートする。
質疑応答の時間に、上野さんの言う自己決定とネオ・リベの言う自己決定の違いについての質問が出された。上野さんによれば、ネオ・リベラリズムの言う自己決定には大きな罠が潜んでいる。優勝劣敗の原則の下にすべてを自己決定・自己責任の結果とみなし、人々を競争させるものであるかぎり、その競争についていける人とついていけない人との格差をどうしても広げてしまうということ。そしてその競争自体がそもそも特定の人々(ここでは特に女性)にとって不利に出来上がっているということ。これらの巧妙に仕組まれた罠によって、ネオ・リベの自己決定はフェミニズムの味方ではありえない。
しかしこの罠はネオリベの登場を待つまでもなくすでに全社会に張り巡らされていて逃げ場はない。では私はどうすればいいのか?抵抗すべきなのだろうか?
上野さんの答えは、「これらを全部やめる」ということであった。一括入社もヤメ、年齢制限もヤメ。男社会を全部ヤメ。なぜならそもそもジェンダー公正は「男のする事を女もする」ことで達成されるのではないからである。
「ジェンダーの問題枠組みの中に男性を位置づけるなら、男性はまず、何よりも支配するものになる。男性に似るということは、支配するものになるということである。しかし、支配者になるためには、支配するものが必要になってくる。皆が"いちばんの"お金持ちである社会が考えられないように、全員が支配者である社会は考えられない。」というデルフィの言葉を引用して、上野さんは「男なみになる」ことの論理矛盾を説明する。
だからやめる。全部やめる。というわけである。
しかしにもかかわらず、近年激しさを増したネオ・リベ的な自己決定論の流れを、やたらとフェミニズムのせいにしたがる人が目に付く。あなたも自己決定とか言うでしょう、望んでいるのでしょうといって、結局は自らのネオ・リベ的な思想のサポートに使うか、逆にデルフィらフェミニストがすでに行った批判なのに、あたかも自分が考え出したかのようにして、そもそもの自己決定権を否定するのだ。
これに対して上野さんは、中西 正司さんとの共著である『当事者主権』(岩波新書)を挙げられた。上野さんは「わたしは生きていくのに人の助けがいります。だから助けてください。でもだからといってなぜ私があなたの言うことを聞く必要がありますか。私は私の自己決定をします。」という二十四時間要介護の人の言葉を紹介された。
結婚制度の崩壊を望んでいるのに同性婚を支持するのはおかしい。結婚しない、国家の干渉を受けたくないといいながら、単身者への保護が足りないと嘆くのはおかしい。国家や政治の領域に踏み込むのには注意深くあるべきといいながら自分の親の介護のことを心配して手厚い保護を望むのはおかしい......。
よほどどこかおかしいのか、最近おかしいおかしいと言われっぱなしで、強い違和感を覚えながらも効果的に反論することができずに悔しい思いをしていた私にはこれは本当に最大の目から鱗だった。
あんなに違和感を覚えながら、「うるさいな!一人じゃ無理なんだから、助けを求めて何が悪い!?」といえなかったのは多分、"自立"への根拠のない信仰心のなせる業だろう。あんなに毛嫌いしておきながら、深いところではずっとネオ・リベの自己決定・自己責任に膝を折ってきたのだ。
「自立自立というけれど、子どもを産んだらどうするよ、年をとったらどうするよ」という上野さんの言葉に思わず笑いがこみ上げた。そうだ、そのとおり。
だから帰る道すがら、一緒に来ていた母に、「そうそう、私これからどんどん老いるから、そのときはよろしくね!」といわれたときも、いつものように険悪な雰囲気になることは避けることができた。一瞬NO!といいそうになったけれど、「まあいいわ、そんなことになったら私も誰かに助けてって叫んで回るから。」と答えることができたから。
最近おかしいおかしいと私をせめるやつは「当事者主権ね~、読んだよ。でもあなた二十四時間要介護じゃないじゃん」とか言っていたけど、そんな女々しく細かいこと言ってないで男らしくどーんと見守って頂戴。上野さんは、なかなか根絶できないバックラッシュに対抗するには、こういう風にもぐらたたき式に「ああいえばこういう」戦法で黙らせるしかないとおっしゃった。
でもモグラの中でも一番始末に負えないのは実は私の中にいて、ぼんやりしているとすぐ元気になる。あんなにばかばかしいと思っていたネオ・リベ的な自己決定も、きっと穴の底でまだ生きている。
ジェンダー・セクシュアリティ研究は、はっきりとした答えは示してくれない。けれどもこういう"腑に落ち"たり"目から鱗が落ち"たりする瞬間にさっと私の前に現れて、「もっと考えなさい、もっとよく考えなさい」と何度も何度も忠告してくれる。
今回の講演では"知って"はいても"腑に落ちて"いないことがあって、それがこんな風に上野さんの助けを借りて突然"腑に落ち"たりできるのだということを感じることができた。このまま思考停止に陥らないためにも、やっぱりジェンダーを研究しようと思う。