ICU学部生 : 外山容子
【CGS NewsLetter 004掲載】
2005年9月18日、ICUで開催された「アジアン・フィルム・ショーケース」にてイ・ジョンファ監督作品「結婚の贈り物」が上映された。イ・ジョンファさんは梨花女子大学で物理学、同学院で教育工学を学び、卒業後はTVドキュメンタリーや子供番組の脚本家として活躍している。日本で結婚し、現在も日本で生活している。
日本の友人から結婚祝いにと贈られた夫婦茶碗は、大小の差があった。夫に大きいほうを自分が使いたいと言うと、大きいのは男用だと返された。そこで抱いた、なぜ夫婦茶碗の小さい方を女性が使うと決まっているのか、という彼女の疑問が映画の出発点だ。
60分という短い時間に監督イ・ジョンファさんが発する強烈なメッセージがこめられている。日本社会のジェンダーへの関心は過去に比べればずっと高まってきたものの、人々のジェンダー観はまだまだ以前と大して変わっていないことを、この映画は大いに暴露している。この映画の中心を占める、実際夫婦茶碗を使っている夫婦や、数人の日本女性や、日本人男性と結婚し、来日して長く暮らしている女性などとのインタビューからは、普段生活しているだけでは気づきにくい、日本人、特に女性の刷り込まれた男女観が透けてみえる。性で差をつけることを伝統によるものだと思い込んでいる。そして今日の女性でも自ら性決定論を受け入れてしまっている。私はこの2つの事実に映画を観て初めて気がつき、目からうろこが落ちる思いであった。今回はその2つについて述べたい。
夫婦茶碗はいつから始まった習慣だろうか?今この文を読んでいる皆さんにも推測してほしい。監督はこの質問を浅草仲見世で夫婦茶碗を扱っている店主や実際に使っている夫婦に問いかける。大抵の人が江戸時代、もしくはそれより前からの習慣だと推測した。しかし、実際は1970年代頃から定着したという。
夫婦茶碗の発祥における人々の認識と真実のずれは、映画の中でもいわれているようにいかに私たちが理屈には合わないが、なぜなのか理由がよくわからない事を「伝統」の一言で済ませてしまっているかがわかる。
そもそも伝統というものは、社会の状況に合わせて変化するものだ。例えば、現在、大相撲の土俵は女人禁制である。1989年には当時内閣官房長官だった森山真弓氏は女性であることを理由に、土俵上での内閣総理大臣杯の授与を、協会側から断られた。「土俵は女人禁制」という文化なのだと考えれば、そのまま尊重するべきなのではというもっともらしい理由をつけることができてしまう。この科学が発達した現代では、女性は穢れであるという考え自体は何の根拠もないものとされ、ただの日本民俗の中だけの物であるはずなのに、女性官房長官が土俵に上がり表彰するという現実に繋がると、昔話の中だけで通じる考えが生きたものとなってしまう。しかし、実はそもそも1972年以前は女性が大相撲を見物することすら許されていなかった。しかし、今日、女性の観戦に対する非難の声は全くと言っていいほど聞かない。土俵の女人禁制といった、文化や伝統といわれるものも変えることが可能なものなのだ。それにも関わらず改めることに抵抗を感じるのは、やはり文化・伝統にがんじがらめになってしまっているからだ。
「夫婦茶碗の大小の差は、女性は男性より一歩引くという『日本の美』の表れ。」、「茶碗の大きさぐらい我慢できる。大きいほうは夫に使わせ、夫をおだて、働かせ、その間女性は家で楽に過ごせばいい。」
これらの意見は、なぜ夫婦茶碗には大小の差があるのかという質問に対して、映画の中で紹介されていたものである。これが今日の女性の正直なところだ。ただ、その女性たちは大小の差の云われを尋ねられたので推測しただけであって、全くの本心ではないかもしれない。さらに、彼女と同じ考えをしている人は意外と少ないかもしれない。しかし、現代を生きる女性の中にでさえ、彼女たちのように、男女と言う性別で分けた大小の差を日本の美だと考え、夫は外で働き妻は家にいるもの、と考える人もいる。女性自身、無意識に自分にとって不利な男女差を受け入れてしまっているのだ。
私自身が、友人など周囲の若い女性に対してうすうす感じるのは、自分が社会を構成する一人として考えを持つのではなく、自己が社会を予想し多数派である社会全般に自分の思考を合わせているのではないかということだ。自分自身は「男性と女性が同じ扱いを受けて当然、性分業などもってのほか」と考えていても、「社会に出ればどんなに自分が男女は平等と考えていても、女性は家にいて男を支えることが一般的で実際そうせざるを得ないのだ。」という一種の諦めを感じることが多い。
男女差とまではいかなくとも、女性自身がはまってしまっている固定観念も存在している。「女らしさ」だ。先に登場した女性の「男より一歩下がるのが女性」という「女らしさ」の定義は過去の物だとしても、今日を生きる女性の間には彼女たちの「女らしさ」の定義がある。例えば、現在、女性向けの雑誌では「モテる」という言葉が頻繁に出てくる。そこでは異性にモテるためにはどう着飾り、どのように振舞うべきかがとりあげられる。また、今に限らず、以前からあらゆる雑誌で、合コンにはスカートをはいていくべし、ピンクの口紅をぬり、カールした髪で女らしさをアピールするべし、といった「助言」がなされている。そのような見た目だけでなく、食を共にするときは積極的にご飯を取り分ける役になること、一品二品手料理を振舞えるようになっておくこと、といった内面に関する「助言」もある。それらの多くが「女らしさ」とされ、それを身につけ「女っぷり」をあげることが「モテる」ための秘訣とされている。
もちろん、全女性がこれらの秘訣に従っているわけではない。ただいくつもの雑誌に長きに渡って、このような記事が載るということは多くの支持を得ているということだ。そしてそれは女性自身が、先にあげたような世の中が定めた一元化された「女らしさ」がないと異性に受け入れられない、と思い込んでしまっていることを示しているのではないだろうか。モテるための雑誌の中では、女性が男性の好みにあわせる。しかしその反対に女性自身が、男性側にかわいらしさだけではなく、他の面で自分を見るように要求する空気はない。
かくいう私も夫婦茶碗の大きさの差に疑問を抱いたことなど一度もない。むしろ「なぜ監督は茶碗ごときにこれ程に熱い映画を作ってしまうのか。」というのが映画の第一印象である。しかし映画を見終わると、今までに述べたように、茶碗という日常的な小さな物こそが人社会的規範-今回の場合は日本の人々には男女には差があって当たり前という意識があり、しかもそれに気づいていないということ-を表していることが分かった。
イ・ジョンファ監督は、明らかに人々の目に付く性差別的制度ではなく至極日常的な夫婦茶碗を通して、自文化に浸りきった一般の日本人とは異なる視点で斬りこみ、夫婦茶碗が暗に示す日本人の意識を露わにした。映画上映後、イ・ジョンファ監督は、韓国の独裁政権時代を自分はどう捉えるのかという話を交えつつ、自分を見直すことについて語られた。その中で夫婦茶碗についての疑問は最初は小さなことだったが、こうして映画を製作していく中で、大きな問題を考えるようになった、とお話になった。また、製作の前後で10kgも痩せ、それはつまり自分自身を取り戻す作業がどんなに大変であるかを表しているとも話された。監督だけではなく、全ての女性が、どんなに些細な事についても女性としてではなく、自分らしく生きるにはまだまだ大変な労力と時間がかかりそうである。