ICU大学院 : 鈴木直美
【CGS News Letter005掲載】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
近頃、性教育やジェンダー・フリー教育に反対する声が喧しい。このレポートではバックラッシュ派がまさに批判している当のジェンダーフリー教育の言説に対して、私が常々感じている違和感について考察してみたい。
「ひな祭りやこいのぼりは女らしさ、男らしさの押し付けになりかねない」といった、伝統行事に潜む「害毒」などを指摘するジェンダーフリー言説は、実はそれ自身こそが新しい「正しさ」の押し付けではないかという批判にしばしばさらされてきた。確かにこういった新しい正しさの導入には問題があると言えるだろう。しかし私は、ジェンダーフリー言説が何かを「押し付け」ていることのみに違和感を抱いているわけではない。私が違和感を抱くのはむしろ、その「押し付け議論」の組み立て方、つまりそれが正しいとされる「理由」・「論拠」から議論をはじめることに対してなのだ。そのようなやり方にはいくつかの問題点があるように思える。
まず第一に、論拠からいつも出発することによって、論拠なしで発言することの価値が不当に下げられてしまわないだろうか。また第二の問題点として、論拠から主張を始めることによって、議論が論拠に関するものだけに矮小化されないだろうか。論拠の説得力が疑わしいとされた場合、効力を失うのはその論拠ばかりでなく、論拠なしでなされる発言も含まれるのではあるまいか? 結果的に私は口をふさがれてしまうのではないだろうか? 最後に、論拠を並べ立てることで、人のこころを動かすことはできるのだろうか。
こういった日々感じてきた疑問についてここでもう一度考察してみたい。