報告:「ラボワジェ夫人:化学革命に参加した女性」

ICU学部生 : 河村翔
【CGS News Letter005掲載】

 2005年10月26日、村上陽一郎教授による科学史フォーラムにおいて、「ラボワジェ夫人:化学革命に参加した女性」というタイトルのもと、名古屋工業大学大学院工学研究科助教授川島慶子教授による講演が行われた。擬人化された可愛いカエルが登場人物をつとめる漫画をレジュメ代わりにしながら、科学史をジェンダーの視点で読み直し、科学のなかにあるジェンダーバイアスを明らかにする必要があると主張された。

 マリー・ラボワジェは、18世紀に活躍した化学者であるアントワーヌ・ラボワジェの夫人である。従来の科学史では、夫人は優秀な助手として実験器具、風景のデッサンを残し研究に貢献した事が“ラボワジェ”の伝記に書かれている。また大化学者である夫を陰で支えた功労者として描かれていることが多い。しかしその伝記には、夫人自身が何を思い、科学に関ろうとしたのかについては述べられておらず、ただ行われたことが記されているのみである。

 川島さんは、夫人について考える上で、父親の影響に着目した。彼女の父親は科学啓蒙主義を信奉しており、純粋科学に価値をおいていた。彼女はこの考え方に影響を受け、科学者を尊敬するのみならず、自らも当時女性が持つべき価値とされた品格や美しさよりも、知識を理解する事の方がより重要であると考えるようになった。こういった価値観のもと、夫人は夫であるラボワジェを尊敬するのはもとより、自らも積極的に科学へ参加し、その功績を認めてほしいと考えていたのではないかと川島さんは分析した。

 しかし夫人の望む科学への参加は当時のジェンダー規範において決して果たされる物ではなく、それは、夫であるラボワジェを通してのみ可能であった。夫人が翻訳した「フロギストン論考」を読み、学者であるソシュールが夫人にあてて手紙を出し、夫人自身の功績と性格の良さをほめたことが資料として残っている。しかし夫人の返信には、彼女の業績は、決して自分自身の力ではなく、ラボワジェの力によって成し遂げられたものだと記されている。この手紙の内容から川島さんは、いかに功績を挙げたとしてもそれは夫であるラボワジェあっての話であり、自分のものと認められない夫人のジレンマが伺えるとしている。また当時のジェンダー規範においては、科学は男性のみが携われるものであった。その中で女性は“名誉男性”として科学に参加し、その内容も補助的な仕事、たとえば実験のスケッチ、語学力を生かした翻訳作業などに限られていたのだ。それゆえ夫人は科学の分野で自分の能力を思う存分発揮できない悲しみを抱えていたのではないかと、川島さんは分析している。

 ジレンマをもたらすものではあるものの、ラボワジェは科学へのアクセスを可能にしてくれていた。川島さんはラボワジェへの夫人の思いが、ラボワジェらのグループが著した「化学論集」出版の騒動によく表れているとしている。この騒動は、ラボワジェが亡くなった後に、彼らの論文集を出版する際に、グループメンバーの一人である化学者セガンの功績がラボワジェのそれと同等のもとして扱われていた事に出版責任者であった夫人が激怒し、ついにはセガンを論集から外してしまったたというものだった。このとき夫人はなぜ激怒したのか。ラボワジェとセガンが同等とされてしまうと、ラボワジェに依っている夫人の功績が相対的に低く捉えられてしまう。川島さんは、そのことが夫人にとって許し難かったのでは、と推測している。またラボワジェ亡き後、夫人はラムフォード伯爵と再婚しラボワジェ・ラムフォード夫人と名乗るようになった。当時の慣習上前夫の姓を名乗ることは一般的なことではなく、大変批難されたという。それでも夫人は前夫の姓を名乗ることを止めず、川島さんはここから、夫人がラボワジェという自分の価値を形作る物であるため、失いたくなかったことのではと論じた。

 川島さんは以上のように述べた上でまとめとして、ラボワジェ夫人の科学への参加は当時のジェンダー規範内で成功したが、それは決して夫人の望んだ形のものではなかったとした。その上で、今後科学史はその分野における女性の存在と役割にも注目すべきであり、その分析を通じて科学におけるジェンダー規範を考えていくべきだ、と締めくくった。

 今回の講演を通じて、科学において女性の果たした役割を詳細に論じることが、男性中心的な視点で語られてきた科学史をより豊潤にする可能性を感じた。科学の世界において、歴史を語るのは男性であり、実際に活動している研究者も男性が多い。それゆえこれまでの科学史では、女性の存在は忘れ去られていたかのようであった。しかし、それは決して科学史において女性に着目することが無価値であることを意味しない。今回のラボワジェ夫人、さらには川島さんの著作で語られるデュシャトレ夫人のように科学に参加したのにも関わらず、周辺的にしか語られない女性も存在している。このような女性達を科学史的に調査、研究することによって男性中心的な語られ方をしてきた科学史に女性という登場人物が加わり、より彩り豊かな物語になるのではないか、と感じた。

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