ICU学部生 : 川口遼
【CGS News Letter005掲載】
【要約】
映画「メゾン・ド・ヒミコ」では、ゲイのための老人ホームを舞台に、借金を背負いながら塗装会社の事務員として働く沙織(柴崎コウ)、老人ホームのオーナーである沙織の父親・卑弥呼、その恋人・春彦(オダギリジョー)を巡る人間模様が描かれている。その性のあり方故に家族から離れて生活する老人ホームの入居者たちは、人生の末期において否応無く家族と向き合わさせられていく。また、この映画は沙織がつとめる塗装会社の専務、細川(西島秀俊)を巡る女性社員の争いを湛然に描くことにより、普遍的とされていた異性愛規範を相対化もする。この会社には、細川との性的な関係を担保に、女子社員の会社内における権力が保証される構造が存在する。この構造は、まさしく非対称的な男女間のセクシュアリティの交換を正当とみなす、異性愛規範に基づいている。この構造から距離をとっている沙織、春彦が細川と関わることにより、今まで問われることのなかった細川のセクシュアリティが相対化され、ひいては構造自体が非普遍的であることが暴かれる。つまり、この映画は一見するとゲイを巡る物語のように見えるが、異性愛規範を問うものとも読めるのだ。
【本文】
「メゾン・ド・ヒミコ」は、「ジョゼと虎と魚たち」を大ヒットさせた監督・犬童一心×脚本・渡辺あやコンビの第2作です。「障がい者の性」を主題にした「ジョゼと虎と魚たち」に続き、「メゾン・ド・ヒミコ」ではゲイと家族をめぐる物語が紡ぎだされます。
物語は、借金を背負いながら塗装会社の事務員として働く沙織(柴崎コウ)を、春彦(オダギリジョー)という男が訪ねてくるところから始まります。彼は、沙織がその存在すら否定したがっているゲイの父親、卑弥呼(田中泯)の恋人でした。ゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」を運営している卑弥呼は、自身も癌のため死期が迫っています。春彦に提示された高額の時給に惹かれ、老人ホームの手伝いをするようになる沙織。騒々しくもどこか悲しげな老いたゲイたちとの触れ合い、そして春彦との微妙な関係などを通して、彼女は父、卑弥呼と向き合うようになっていきます。「メゾン・ド・ヒミコ」の老いたゲイたちは、セクシュアリティのあり方故に家族から切り離され、仲間たちと寄り添うように生きています。しかし、その人生の末期において、彼らは否応なく家族と向き合わされます。彼らが帯びているそこはかとない悲しみはここから生まれているのでしょう。
このように、この映画はセクシュアリティと家族の物語と読むことが可能です。しかし、私は別の側面に着目しました。それはこの映画におけるヘテロセクシュアル男性の描かれ方です。犬童監督いわく沙織の働く塗装会社の専務、細川(西島秀俊)は、この映画がテレビで放映されていてもすぐチャンネルを変えるような男性です。彼は、沙織とは別の女性社員と肉体的な関係をもっており、その社員は彼の権力を笠に着て、我が物顔で沙織に接しています。しかし、新しい女性社員が入社し彼の愛人になると、元愛人は退社を余儀なくされます。ここで繰り広げられるゲームは、ある組織内で権力をもつ男性をめぐり、女性同士が争うという古典的なものです。この中では女性は美貌を武器に有能な男にぶら下がることでしか、自己実現を図ることが出来ません。これは、近代特有の性別役割分業に基づく男女の評価基準の違い(男は金、女は顔)に基づくセクシュアリティのあり方といえるでしょう。
ところで、春彦と沙織はこのゲームの外にいます。まず、春彦はゲイであることから、このゲームの外に位置づけられます。「絶対に痛いから男とはセックスしない。」そう豪語する細川に対し、春彦は「なぜ、痛くする側にならないの?」と問い返します。ここでは、ゲイと肛門性交を関連づけている細川が、なぜか自らが挿入される側であることしか想定していないことを春彦が皮肉たっぷりに指摘しているのです。怯んだ細川は,春彦に「ノンケをからかっちゃダメだね。」とあしらわれてしまいます。細川はなぜ、春彦の一言に怯んだのでしょうか。それは、今まで当たり前のものとして、細川を含めた誰もが問うことのなかった細川のセクシュアリティを、春彦がそのベールを暴いたからではないでしょうか。
この映画では沙織をのぞいては男性のセクシュアリティしか語られていないので、これに限って議論を進めますが、一般的にいって、世の中のほとんどのヘテロセクシュアル男性はヘテロセクシュアルですらありません。私たちが現在、生きているような強制的異性愛主義社会では、ヘテロセクシュアルであることが普遍化されているため、ヘテロセクシュアルの男性には、自らのセクシュアリティを問う必然性がありません。このような社会では、ホモセクシュアル男性、いわゆるゲイは自らのセクシュアリティについて自問自答せざるを得ません。それ故、自らのセクシュアリティに無邪気に無自覚な細川のような「ノンケ」男性をみるとからかってみたくなるのでしょう。同じく「ノンケ」男性である私も細川と似たような経験を何度もしています。細川にとって男性とは友情を持つ対象であっても性的欲望を喚起する存在ではありません。彼にとってゲイとは主体的に関わるようなものではなく、例え関わるとしても一方的に自分を攻撃するようなものでしかなかった。そのようなファンタジックに捉えていた同性間性行為、この当事者に自分がなりうる。細川は、春彦の一言によってその可能性を見せつけられ、怯んだのではないでしょうか。
一方、沙織は、実際に細川と肉体関係を持ちます。セックスの後、涙を流す沙織は、心配そうに見つめる細川に対し「私が泣いている理由は専務の考えているどれでもない!」と言い放ちます。沙織もまた、前述した出し抜きゲームの外にいるため、その行動は細川にとって理解不能なものです。沙織の一言は、細川の体現するノンケ的な文脈からの決別を宣言するものであり、その涙は、ゲイの父親、その恋人、老人ホームの住人とも共有できない悲しみの現れなのでしょう。この一言により、沙織が細川とは異質なものであることが明らかになり、結果、普遍的と思われていた細川のセクシュアリティが相対化されるのです。映画の終盤、細川の仕事部屋でキスをする細川と沙織が描かれます。ことを続けようとする細川を、沙織は「セックスはしないと約束したでしょ。」とあしらい、持っていた書類にハンコを押すよう要求します。細川のセクシュアリティが相対化されてしまったことに伴い、細川と沙織の権力関係も変容します。この表現は、男女間における権力関係とセクシュアリティの絡み合いをうまく描き出していると言えるでしょう。異性愛と男女間の権力関係を大前提とした塗装会社での性を巡る人間関係。細川、沙織、春彦のコミュニケーションを通じてこの構造自体も相対化されているのです。
この映画では,塗装会社での細川をめぐるノンケ的な人間関係とメゾン・ド・ヒミコでの人間関係が対比して描かれ、沙織はその間を行きかうものとして存在しています。沙織が、春彦によってメゾン・ド・ヒミコに連れて行かれ、住人とのぶつかりを経て、細川と関係を持つことからもこのことがわかります。ここで、細川の存在に注目すれば、この映画をヘテロセクシュアル男性のセクシュアリティが相対化していく過程を描いたもの、と捉えることも可能だと感じました。また、その過程に着目することで、塗装会社における異性愛主義体制自体の文脈依存性も明らかになります。