バトラーから何を学ぶのか

中央大学 : 清水晶子
【CGS News Letter005掲載】

『ジェンダー・トラブル』が世に出て15年以上、同書の邦訳が出版されて5年以上たって、ジュディス・バトラーがようやく来日を果たした。「セックスは常にすでにジェンダーである」と唱えて90年代のジェンダー理論におけるパラダイム転換の象徴となり、同時にクィアなジェンダー表現の政治的可能性を理論化してクィア・スタディーズの基本文献の一冊にもなった同書は、バトラーの代表的著作の一つであり、その理論的な有効性は現在も失われてはいない。とはいえ、初版から15年の間にバトラー自身の論考の焦点も少しずつ変化している上、日本のフェミニズムやLGBTの理論・運動が直面する問題は、当然のことながらアメリカ合衆国のそれと同じではない。従って、バトラーが「はじめての」聴衆を前に、『ジェンダー・トラブル』のジュディス・バトラーとして彼女の現在の問題関心をいかに語るのか、今回の来日にあたって私たちの興味と期待は当然そこに向かったが、逆に、今彼女から何を学ぶのかをあらためて考え直すことが、聴衆である私たちにとっての課題であったように思う。

 1月12日のICUにおける学生を中心とした座談会では、まず「バトラーによるバトラー入門」とも言えるような短いスピーチがあり、その後コメンテーターやフロアの学生からのさまざまな質問にバトラーが答えるという形がとられた。バトラーはこのスピーチで、「構築された存在としてあらかじめ必然的に他者に依存し他者に制約されている人間が、にもかかわらずいかにエイジェンシーを維持しうるのか」という問題に触れたのだが、存在の根幹における人間の他者への依存というこの問題こそ、『ジェンダー・トラブル』以来の彼女の一貫した論点の一つであると言ってよい。異性愛規範に合致しない身体やセクシュアリティを排除して成立する「理解可能性のマトリクス」に対する批判として初期の著作にあらわれていたこの問題は、近年の著作ではとりわけ「承認」の問題として、すなわち、誰が人間としてその存在を「認められ」るのか、どのような理由、どのようなやり方で、特定の存在が人間として「認められず」、それがどのような結果をもたらすのかという問題として、論じられている。ICUの座談会でも、権利の主体として認められるのは誰であり、政治的主体として立ち現れるために何が必要なのか、そこに権力がどう関係するのか、政治的な想像力の領域から誰が/何が消し去られようとしているのか、などについての話の中で、バトラーが「承認をめぐる暴力」と「承認の可能性を拡大する試み」とに何度も言及していたことが印象的だった。

 承認をめぐる考察は、14日の御茶の水女子大学での講演でも社会的な承認の欠如がいかに人間の生存を脅かすかという方向から精神分析理論を援用しつつ展開され、さらに質疑応答でも、9.11以後のアメリカ軍による死者のイメージの排除という文脈における、「誰の死が悼まれるに値すると認められるのか=誰の生が生として認められるのか」という問いとして、繰り返されていた。

 ここで、承認の可能性を拡大するということと、すでに存在する承認の枠組みから外れる存在をその枠組みの中に取り込むこととは違うという点に、注意しなくてはならない。ICUでの座談会で、「あなたの理論はexclusionを批判するものだが、それはinclusionを目指すということか、イエスかノーで言うならどちらだろうか」という問いに対して、バトラーが明確に「ノー」と答えたことが、つよく印象に残っている。つまり重要なのは、承認の枠組みを維持したまま、うっかり見落としてきた存在を一つ一つ拾い上げてその枠組みの中に取り戻すことではなく、枠組みそのものを常に疑い、揺り動かそうとすることなのだ。それは、私たちがたとえば女性であり、特定の社会の一員であり、権利の主体であり、あるいは人間であることを可能にしている条件を問い直し、私たちにとって女性とは思えない、社会の正当な一員とは思えない、権利の主張などすべきだとは思えない、あるいは人間とは思えないかもしれない存在をも承認しうる枠組みを模索するということである。たとえその試みによって私たち自身が、女性として、社会の一員として、権利の主体として、人間としての承認の枠組みから外されてしまうかもしれない危険があったとしても、あるいは私たちがすでに承認の枠組みから外されている場合にはその枠組みの中へととりあえず滑り込むことが難しくなる可能性があったとしても、承認の枠組みを批判し、不安定にすること、バトラーにとってはそれこそが批評critiqueなのだという。

 そのような真の意味での批評は簡単に達成できるものではなく、理想論と言えなくもないのだが、かといって、私たちがせめてできる範囲で承認の問題に取り組む必要がなくなるわけではない。ジェンダーフリーは同性愛者やGIDを生み出すという主張に対して「それは違う」と反論するだけではなく、「仮にそうだとしても、何がいけないのか?」と問い返すこと。「フェミニストが男女同室着替えを推進している」というデマに対して事実を指摘して訂正するだけではなく、「更衣室は常に男女二つに分けるべきなのか?」と問い直すこと。「承認」の問題はそのような身近なレベルで既に存在しているのであり、私たちが最低限のそういう問い返しすらせずにいるとしたら、私たちはバトラーから何も学ばなかったのだ。あるいはたとえば、「日本の」フェミニズムを日本国籍のある肌の黄色い「日本人の」フェミニズムと同視する発言や、性差別撤廃を男女平等と言い換える発言に対して、私たちが疑問の声すらあげないとしたら、あるいは野宿者のテントはそもそも不法占拠なのだから大阪での強制排除も仕方がないという意見に対して、私たちが沈黙を守るとしたら、私たちは有名人を見て楽しいひと時を過ごしただけで、やはりバトラーから何も学ばなかったのだ。私たちが社会のさまざまな場で承認の枠組みを問い直し続けるのでなければ、バトラーの考察はただの抽象的な概念操作にすぎない。たとえそれが微少で不十分なものであったとしても、具体的な場における生存の可能性を拡大しうる力をその考察から引き出そうとしてこそ、私たちはバトラーの来日講演で何かを学んだと言えるのではないだろうか。

月別 アーカイブ