ジェンダー法学会

大阪大学大学院 : 久保田裕之
【CGS News Letter005掲載】

 2005年12月3日・4日と、雪のちらつく宮城県仙台市において日本ジェンダー法学会(JAGL)の学術大会が開催された。研究者と実務家の橋渡しを目指して2003年に発足した当学会も今年で3年目を迎える。会場を東北地方に移した今回も、全国からジェンダーと法に関心を持つ法学者・弁護士・司法書士をはじめ、法社会学・社会学などの研究者からNGO関係者までが集まり、報告やシンポジウムのなかで熱心な議論が交わされた。私は、ジェンダーと法を学ぶ学生の全国ネットワークである「ジェンダー法学ネットワーク」(GLn)のメンバーとして第1回大会から毎回参加していることもあり、今回の大会の内容や雰囲気などを2日目の個別報告を中心にレポートしてみたい。個人的には、ジェンダー法の若手研究者二人の報告は実践的にも理論的にも非常に興味深く心躍るものであった一方で、学会における研究者と実務家との橋渡しという点においては今後の課題を意識させられたというのが、感想である。

 1日目の午後は、「男女共同参画政策の検証―地方自治体の取組みと課題を中心に」と題して、社会学者である橋本ヒロ子さん(十文字学園女子大学)による全国の男女共同参画条例に関する報告のあと、NGO関係者を交えてのパネルディスカッションが行われた。「平成の大合併」と呼ばれた全国規模の市町村合併の影に隠れて、市民の手によって先駆的な内容が盛り込まれた旧市の男女平等条例の幾つかが、新市の条例としては引き継がれないという形で事実上廃止に追い込まれている現状などが報告された。また、ジェンダー・フリー思想に反対し、伝統的な「主婦の価値」や「家庭の価値」を称揚する女性の声を議会へ反映させるための「女性塾」(塾長:山谷えり子参議院議員)の活動などが話題になった。これからは、単に女性議員比率や女性管理職比率の上昇を目指すような、量的な目標が意味を成さなくなってくるのかもしれない。

 続く2日目の午前中は、若手研究者による個別報告が行われた。今回の報告は、大西祥世さん(法政大学)による「女性に関する人権保障と当事者主体の人権救済」と、吉川真美子さん(お茶の水大学)による「デュー・プロセスのジェンダー化―米国のドメスティック・バイオレンス加害者の逮捕について」の2本。どちらの報告も、セクシュアル・ハラスメントやドメスティック・バイオレンスといった女性が被害者となる具体的な事例を分析しながら、翻って、従来の法理論が前提としてきた「解決」「救済」「デュー・プロセス(手続的公正)」といった概念の再構成を企てるという、まさにジェンダー法学の可能性を感じさせる力強い報告だったと思う。

 大西報告は、職場や学校、家庭で起きる人権侵害の多くは女性に対するものであり、被害も深刻であるにも関らず、司法が被害者の救済に消極的である理由を憲法学の司法権論の議論の中から解きほぐし、司法に替わる女性団体やNGOによるADR(Alternative Dispute Resolution)についての紹介と分析を通じて、当事者主体の人権救済とは何かを検討している。具体的には、教員によるセクシュアル・ハラスメントが原因で不登校になった女子学生から相談を受けたNGOが、教育委員会との交渉を含め多方面で主導的な役割を果たすことで、紛争の解決にあたった事例などが報告された。例えばこのケースでは、NGO主導の下、被害者へのカウンセラーの紹介など心理的ケアがなされ、教育委員会には欠席が進級や卒業に影響しないように対応を求めるとともに再発防止に向けての取り組みを約束させ、被害に関する事実確認会を開催した上で加害者の謝罪と余罪の追及がなされ、最終的に加害者は懲戒免職となったという。被害者とは利害の異なる教育委員会の主導であったならば絶対に及ばないであろう、きめ細かな対応がとられていることは興味深い。

 吉川報告は、1977年にオレゴン州で制定された「虐待防止法(Abuse Prevention Act)」の中で、「相当の理由(probable cause)」を要件に警察官にDV加害者の逮捕を義務付ける「義務的逮捕(mandatory arrest)」制度の紹介と、「デュー・プロセス」との間の相克を議論しながら、日本の法刑事訴訟法への示唆を検討している。誰でも想像できるように、DV事件では隣人の通報などで警察官(多くは男性)がDVの行われた現場に到着しても、「あとは2人で冷静に話し合いなさい」と言い残して立ち去ってしまうケースが少なくない。当然、その後エスカレートした暴力によって被害者が死亡するケースも報告されており、アメリカのいくつかの州ではDV事件で警察官に逮捕を義務付けているという。しかし、この義務的逮捕は、逮捕など自由の制限には告知と聴聞の機会という手続的な公正を保証する「デュー・プロセス」の原則に抵触するようにも見えるため、憲法上、激しい議論の的となっている。吉川はこの対立を、「デュー・プロセス」概念を解釈し直すことで調停しようと試みている。

 両者の報告を聞いていて興味深く感じたのは、2人が扱うテーマの対比である。一方で大西報告が扱っているのは、制度による上からの画一的な紛争解決ではなく、当事者意思を尊重した主体的な紛争解決を考えるものである。これに対して、他方の吉川報告が扱っているのは、当事者である被害女性の意思を口実に私的領域への介入を手控えてきた警察を制度で縛ることによって、画一的かつ強制的に被害女性の生命と身体の安全を保護しようとするものとして対比できる。もちろん、硬直化して当事者を置き去りにした制度から主導権を取り戻すことが重要である反面、当事者の意思を理由に一切を自己責任に回収する議論にも注意しなければならない。とりわけ、新自由主義的な自己責任論が強調される昨今においては、パターナリズムにも肉薄する後者の視点が重要になってくるだろう。加害夫から逃れて貧困に陥るか、夫を逮捕させて貧困に陥るか、それとも暴力に耐えるかしか選択できない社会構造の下で、選択の結果がたとえ被害女性の死であっても、それを彼女の自己責任と呼べるのだろうか。ジェンダー法学の理論的かつ実践的な可能性を感じる2つの個別報告であった。

 続く2日目の午後は、1) グローバル化とリプロダクティブヘルス/ライツ 2) 少子化対策3)日本型雇用システム、4) 家族法などの様々な観点から「少子化社会のジェンダー法学的分析―家族・労働・自己決定」と題するシンポジウムが行われた。男女共同参画が家族の絆を弱体化するという批判に対して、男女共同参画こそが少子化を解決に導くのだという拙速な議論が問題視される現在、改めて日本の少子化とはいったい何なのか、ジェンダー平等を目指すことといったいどういう関係にあるのかを問い直そうとする内容であった。

 仙台の寒空の下、2日間に渡って行われた東北大学大会は滞りなく幕を閉じたが、今回の大会を通じて感じたことがもう一つ。それは、雇用機会均等法の改正へ向けた法案作りが大詰めを迎えたこの時期に、ジェンダー法学会として何か関連したイベントは持てなかったのだろうかという疑問である。いつかとある女性弁護士が訴えていたけれど、法律が出来たあとや判決が出たあとに事例が分析され論文が書かれても、当事者をはじめ弁護士や活動家にとっては後の祭りなのだ。実務家から生の声を汲み上げて研究に活かすだけではなくて、最前線にある実務家にオンタイムで最新の分析と理論を供給できてこそ「橋渡し」と言えるのではないか。それは極めて政治的である。けれども中立公正を自称してきた法理論がすぐれて政治的な産物であることを暴いてきたのはフェミニスト法学でありジェンダー法学であったはずである。この学会が研究者と実務家の「不幸な結婚」、すなわち、協力・協働のはずが一方の他方への同一化に終わらないためには、何ができるだろうか。

 次回の第4回大会は、2006年冬、お茶の水大学にて行われるとのこと。

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