早稲田大学大学院:森脇健介
2005年11月12日、男女共同参画社会基本法の現状と、最近のジェンダー・バッシングをテーマとしたシンポジウムが早稲田大学において開催され、百人超の人々が参加した(主催:早稲田大学ジェンダー研究所)。タイトルは、「危機にある『男女共同参画社会』?」。そもそも今の社会は、男女共同参画の可能な社会となっているのか、そしてこの「男女共同参画」の理念は、真に「男女平等」の理念に立脚しているのか、という二つの疑問から、このようなタイトルが選ばれた。
パネリストは、浅倉むつ子氏(早稲田大学大学院法務研究科教員)、本山央子氏(神戸大学国際協力研究科博士課程)、竹信三恵子氏(朝日新聞記者)の三人で、浅倉氏は法的視点から、本山氏は国際的視点から、竹信氏はジャーナリストとしての経験的視点から、現在のジェンダー・バッシング現象を解き明かしていった。三氏の議論は多岐にわたったが、現状分析に関する主な論点を簡潔にまとめるならば、次の二点に収斂するものであったと思われる。ルールを制定する場におけるパワー・ポリティクスの問題と、社会を取り巻く経済的イデオロギーとしての新自由主義の問題だ。
まずパワー・ポリティクスの問題についていえば、浅倉氏は男女共同参画社会基本法の限界として、その実効性がそれぞれのルール制定の現場へ白紙委任的に委ねられていることを指摘した。現場におけるパワー・ポリティクスが、当法の理念の政策実現性を大きく左右するのである。本山氏はこのルール制定の場に絡む宗教原理主義団体の国際的ネットワークを指摘し、そして竹信氏は、バッシングがこの場において現実に果たしている、大きな喧伝効果を指摘した。
次に、新自由主義のイデオロギーについての理解は、三氏はほぼ一致していたように思われる。すなわち、新自由主義的経済は、今の時点で力を持っている人々なら誰であれ後押しするが、それを阻害する諸要因は切り捨てる傾向にある。そして、この過酷で冷たい競争社会が成立する暗黙裡の前提には、「家」制度の温存がある。「家」は男性労働者が市場から逃避できる場としての再生産機能を果たし、この機能の担い手と期待されているのはもっぱら女性である。ここにおいて新自由主義と保守主義のイデオロギーは、密かに手を結んでいるのである、と。
以上はシンポジストによって明示的に伝えられた論点であったが、それとは別に、私が重要であると思ったことがある。それは、「パワー・センシティブ」の視座だ。これは、「ジェンダー・センシティブであるということは、パワー・センシティブであることだ」、という本山氏の指摘をきっかけに思い至ったことである。私が日ごろ考えていたことにひきつけて解釈すれば、これは、「ジェンダー・センシティブの理想的なあり方とは、すなわちパワー一般にもセンシティブになること」の意味だと思われる。この意味で、ジェンダー・センシティブとパワー・センシティブは、ともに相互補完的な視座であると位置づけられるだろう。これを踏まえると、ジェンダー・バッシングは、単に「ジェンダー・センシティブ」の視座の不在というだけではなく、この「パワー・センシティブ」の視座の決定的な不在、つまり「他者に対して行使する自らのパワーへの鈍感さ」をも、その構成要素としているように思われる。
上に述べたパワーへの視座は、イデオロギー上のマジョリティとマイノリティの関係を想定してみれば、明確になると思われる。この際もちろん、単純なマジョリティ/マイノリティという二項対立は、その問題自体や当事者たちの諸相を単純化してしまうので不十分な視座ではあるが、ひとまずは次のようにいえるだろう。すなわち、マジョリティの側における、マイノリティのためにほんの少しでも不快を感じるのは嫌だという感情と、マジョリティの少しの不快と引き換えに実現できるはずであったマイノリティの側の希望の挫折、この両者の間には大きな落差がある。これは両者におけるパワーの不均衡を顕著に示すものであり、そして、この不均衡の自然化、不可視化の一端を支えているものこそが、自らの持つパワーへの鈍感さなのである。ジェンダーの視座を加えれば、この隠蔽されたパワーの配置関係は、より明らかになるだろう。
例えば、今回のシンポジウムでも取り上げられた少子化社会対策基本法から、いわゆる「少子化問題」を一つの例として考察してみる。日本の少子化社会には、婚外子の出生率の低さという特徴があり、これ自体、少子化現象の一因となっている。この出生率は、他の資本主義先進国における婚外子の出生率と比較すれば、異常ともいえるほどに低い。「非嫡出子」の相続分差別規定が民法に残存していることも含め、日本で婚外子とその母が被りうる経済的・社会的不利益がどれほど大きいかということを、この数値は暗黙のうちに伝えている。そしてこうした示唆を考慮すれば、少子化現象は、上のような一因の解消をも経た後に、初めてトータルに改善されるものであるといえるはずだ。
しかし実際のところ、少子化社会対策基本法で明文の保障の例として挙げられているのは、女性のキャリア形成支援や、子育て支援に関わるものばかりである。上記のような原因まで含めて是正の道を指し示すような(すなわち後々の民法改正にまで通じるような)、具体的な視座は見当たらない。
子供の産み難さ、育て難さの改善を法目的としているのに、なぜ婚外子差別は不可視化されてしまうのか。なぜ「非嫡出子」という法的身分は存続しなければならず、その差別撤廃に向けた運動は抵抗に遭うのか。このように「嫡出/非嫡出」という「正統/非正統」のカテゴリーを存続させようとする試みの背景には、前に述べた「マジョリティ/マイノリティ」の関係にあるような、隠蔽されたパワーの配置関係が存在するのではないか。
少子化現象の解消に本気で取り組むのであれば、婚外子の生き難さと引換えに何某かが得ているであろう利益のいわば搾取構造、この是正も視野に入れる必要がある。その際には、婚外子の基本的人権の問題に加え、出産・出生に関わる制度ならびに日常に潜むパワーの作用の仕方―なぜ不利益を被るのがもっぱら婚外子と母に限られ、父はそこから逃れられるのかなど―、これら社会構造そのものに対する、ジェンダーとパワーへの視座が、欠かせないものになるだろう。
にもかかわらずバッシングは、これら問題の諸相を性的放縦や家族崩壊の言説に回収し、その結果、純潔の推進や結婚/家族制度維持という主張に問題をすり替えてしまう。こうしたバッシングが行われる動機には様々あると思われるが、竹信氏が指摘したように、既存の制度内で自分はそれなりに「幸せな」生活を営めていたということ、そしてその環境がわずかなりとも変化することへの違和感も、それら動機の一つとして数えられるだろう。そしてこのように問題を見た場合、こうした動機は、既存の制度の枠内で平穏を享受できた人一般にも、関りうる事柄となるはずだ。
事例が長くなってしまったが、まずは、自分が気づかないで享受している自らの特権的立場と、無意識のうちに他者に振るいうる自らのパワーへのまなざしを持つことが必要なのではないだろうか。自らもまた、このパワーのネットワークに関与していると意識化することから、バッシングはその内部から相対化でき、ジェンダー平等、ひいては片面的ではない真の人権確保への道が、開かれていくのではないかと思われる。
ただ、上に述べたことは、一つの理想であるといえる。現実には多様な価値観が交錯しており、単に個々人の内省を期待するだけでは、現状の打破には至らないだろう。結局、今後の社会形成のためには、ジェンダーやパワーにセンシティブになることに加え、現実的行動もまた求められるはずである。つまりシンポジスト三氏も述べたように、ルール制定の場の代表として誰を選ぶのかという、制度構築に関する根本的問題へのコミットメントと、その選択を支える我々自身の市民性の問題も大いに問われているのである。本稿の執筆時点ですでにシンポジウムからは数ヶ月が過ぎたが、当時懸念されていたことの中で、男女共同参画基本計画から「ジェンダー」の用語そのものを削除するという試みは、辛くも実現を免れた。これはまさに、根強い現実的行動の積み重ねがあってのことである。
今後作り上げられようとしている社会が、どのようなルールで支えられるものになるのかは、今のところ未知数である。しかし、ジェンダーひいてはパワーにセンシティブな視座を保持しつつ、ジェンダー平等に向けた一人ひとりの行動の集積こそが、将来の社会形成に重要な役割を果たすのだろう。同時にそれは、ジェンダー・バッシングへの有効な向き合い方ともなるはずである。以上が、シンポジウムに参加しての、私の所感である。