“人間と性”教育研究協議会代表幹事:村瀬幸浩【CGS NewsLetter 006掲載記事】
市民から「とんでもない性教育」への抗議があった、と議員が国や各自治体の議会で突然問題にする。そして「望ましくない」旨の首長らの答弁を引き出す。同時に、ある新聞社が実態も確かめずにいかにも「ひどい」という記事を載せる。一方で問題化を恐れた教育委員が予め性教育を抑えにかかる。時には処分をちらつかせて。こうした連携プレーのような攻撃が2002年から明確に始まり現在も続いている。
「過激」「ゆきすぎ」という言葉の連呼によって危機感だけが人々の意識に刷り込まれていくが、何をもって過激・ゆきすぎなのか―なぜ性器のついた人形が、子どもに性器の名称(ペニス・ワギナ)を教える事が「過激」なのか―が議論されることはない。そして小学校の教科書からペニス・ワギナの言葉が消え、中学校では「性交」は「性的接触」に変わった。翻って子どもたちの性を巡る現実はどうか。ここに事細かに書くことはできないが、たとえば携帯やネットを使った性の被害、クラミジア等性感染症の増加、予期しない妊娠などのトラブルは特に10代に著しい。それは大人からの加害だけでなく、10代同士の無知ゆえのものも多い。低年齢の時期からの的確な「いのちと健康の教育」、さらに思春期以降の「人権と共生の教育」が求められる所以である。
しかしバックラッシャー達は、「こうした現実は過激な性教育が招いたものであり、学習によって子供に力をつけるのではなく“禁欲”をこそ教えるべし」と主張しているようだ。文科省などもそれに追従し始めたようだが、これはブッシュ政権の復古的な純潔教育と通底するものといえよう。
性というテーマは人々の意識の最も深い処にあり、最も動きにくいものだ。しかし20世紀後半、国際的な動きを背景に、性とジェンダーの教育はその固い意識にメスを加え始めた。今日のバッシングはそれに危機感を抱く勢力が巻き返しを図って、人々に変革への不安を煽っているのだ。つまり、これは単に性教育だけの問題ではなく日本の保守化の一環なのだ。そして、今それは成功を収めつつあるように見える。
私たちは権力を持たない。しかし子どもの、そして人間の幸せや、いのちと性と人権を大切にする教育をすすめる熱意はいささかも揺らいではいない。教育関係者のみならず医療・福祉分野の人々、さらに保護者、市民の方々とつながる言葉を紡ぎ出し、絆を強め、困難だが誇り高い仕事の前進のために力を尽くしたい。