日本女性学会報告

立命館大学助教授:秋林こずえ【CGS NewsLetter 006関連記事】

 2006年6月10・11日、日本女性学会大会が大阪ドーンセンターで開催された。大会のシンポジウムでは、「ジェンダーをめぐる暴力とトラウマ――暴力への対抗としてのフェミニズムの希望のあり方」をテーマに、宮地尚子氏(一橋大学)、大越愛子氏(近畿大学)、木村涼子氏(大阪大学)の3人がパネリストとして報告と議論を行った。

 報告に先立ち、司会の伊田広行氏より、「フェミニズムが暴力に対する新たな視座と思想をどう提供できるか」という問題提起が行なわれた。伊田氏はまず、「暴力」をより深く、その多様性と多層性を踏まえて、ジェンダーと関連させて捉えることを提起した。それは「女性は平和」というような女性本質主義による非暴力ではなく、権力的でなく生きる非暴力闘争について、フェミニズムの観点から捉え直すというものである。そして伊田氏は、暴力に対抗する希望のあり方を模索する上で「暴力被害の結果としてのトラウマ」とジェンダー化・ジェンダーの関わりに目を向けることを呼びかけた。
 宮地氏は、精神科臨床医としての経験から、「性暴力やDV被害者との臨床から学んだこと」というテーマで、トラウマ、暴力、ジェンダーについての報告を行なった。自己の経験を交えながら、氏は、臨床の現場で性暴力やDV被害者に対応する中で、これらについて自らが「何もわかっていなかった」こと、つまり専門分野の教育にジェンダーの視点が欠けていたこととその意味について、知の構築と権力にひきつけて指摘した。そして、実際に殴られるのではなく、「殴るぞ」という状態に長期間置かれるというような経験によってひき起こされる心の傷であるトラウマが持つ、目に見えない暴力・傷・その連鎖を可視化することと、それのような暴力の予防とそれからの回復支援の必要性を訴えた。
 さらに、性暴力がトラウマティックになる理由から、暴力の多層性について分析した。例えば、加害者からナイフで刺されても「関係を持った」ことにはならないにもかかわらず、性暴力の場面においては、「寝る」「ものにする」などセックスを婉曲に表現することによって、被害者は加害者との「関係」や「共犯性」を持ったことされてしまう。このようにジェンダー化された構造の中で、他人との距離感など生きていくために基本的な心的図式を歪められることによって、被害者はその後の発達、対人関係に深刻な影響が及ぼされるという。
 大越氏は、「女性・戦争・人権」学会の事務局長も務める西洋思想の研究者であり、1990年代に発覚した京都大学教授によるセクシュアル・ハラスメント事件の被害者/サバイバーの支援グループの活動経験や、2000年に東京で行われた日本軍「従軍慰安婦」(性奴隷)制度を裁いた民衆法廷「女性国際戦犯法廷」にも積極的に関わってきた経験から、「構造化された暴力に抗して」というタイトルで「暴力容認体制と闘うフェミニズム」について展望した。大越氏は、直接的暴力、構造的暴力、文化的暴力という平和研究の基礎であるヨハン・ガルトゥングによる暴力の定義をさらにジェンダーの視点から掘り下げた。すなわち、直接的暴力―可視的暴力、構造的暴力―暴力が常態化し、不可視となる、文化的暴力―暴力が正当化され、性暴力の加害者が免罪される、というものである。このように常態化した構造的暴力と正当化された文化的暴力のもとでは、単純な加害者-被害者関係ではもはや現実を捉え切れず、誰もが加害者であることを強いられていく。
 さらに大越氏は、フェミニズムは、性差別を問題化する思想から、ジェンダー二元論体制を構成している構造的暴力に抗い、それを解体する思想へと変容したと論じた。その契機となったのが、日本軍性奴隷制問題であり、サバイバーの告発は、軍事化された国家暴力やジェンダー化を強要するヘテロセクシズムなどのジェンダー二元論体制を必要とする構造的暴力を明らかにしたという。とりわけ、2001年12月にハーグで出された「女性国際戦犯法廷」の判決が、性暴力につきものである「合意」の定義を明確にするなど、フェミニズムが非暴力思想を深化させる可能性を示した。また同時に、「女性国際戦犯法廷」以降、ジェンダー・フリー・バッシングが強まっているという現状を分析した。
 近年の日本におけるバックラッシュを分析した編著『ジェンダーフリー・トラブル』の編者である教育社会学者、木村氏の報告は「フェミニズムの観点から教育と「暴力」を考える」と題する報告を行なった。木村氏は、まず、学校教育が性別分化を制度化し、また、男女別男子優先名簿に見られるように、様々な学校慣習が性差別を内包した「隠れた(正確には、隠された)カリキュラム」であったことを指摘した。そして、現在のジェンダー・フリー・バッシングは、「学校教育を舞台としたヘゲモニー争い」であり、これまでの着実な実践が育ててきた新しい家族形態やセクシュアリティの多様性の認知などが後退させられる危機に面しているという警告を発した。
さらに木村氏は、近代学校教育が国家による制度化とコントロールであること、そして教室は複数の権力の交差空間であることの再確認したうえで、学校教育の暴力性を近代学校教育システムとその権力性という視点から解明し、フェミニズムの視点から学校教育を問い直すことを主張した。具体的な例として、戦前・戦中の修身教育を中核とした国定教科書が、形を変えて、「心のノート」という道徳授業の副教材として、現在、文部科学省から全国の学校に一斉に配布されていることを挙げた。「心のノート」を巡っては、その後のフロアからの質疑応答においても熱心な議論が交わされた。
 その後のパネリスト同士のディスカッションとフロアを交えての質疑応答では、短い時間に多くの議論が交わされたが、例えば、木村氏が紹介したフェミニスト・ペダゴジー、つまり、フェミニストの視点を持った教育の思想は、非暴力の思想と実践において重要であろう。また、運動に関して、差別と闘う「主体」の形成や、他者に自分の声を伝えるために内面化された差別や抑圧と向き合い、またそれができる空間をいかに構築していくかという課題が提示された。宮地氏は、運動内でしばしば「仲間同士の傷つけ合い」が起こることに関してコメントしたが、そこで印象に残ったのは、そのような場合でもその場にいなくていいのが加害者であること、であった。そのような被害・加害を構造的に理解する必要性や、よりしなやかな運動を呼びかけた。
 個人の経験にまとめられがちなトラウマを、ジェンダーの視点から分析し、構造化された暴力の分析へとつなげ、さらにそれに対抗するための可能性としてフェミニスト・ペダゴジーへと議論を発展させようとしたシンポジウムの試みは、時宜を得たテーマであったと思う。しかし、司会の伊田氏が言うように、暴力が多様性で重層的な性格を鑑みれば、どのような暴力のどのような側面について語っているのかを、より注意深く議論しなければならなかっただろう。この点がパネリストの間あるいはフロアとの間でうまく共有されていなかったのか、「暴力」の焦点によって、議論の位相がすれ違う場面が何度かあり、議論が深められなかったのは残念だった。ともあれ、現在の日本におけるジェンダー・フリー・バッシングや世界各地での武力紛争の悪化という非常に厳しい現状を根本的に変えるためにも、本シンポジウムでの議論が深化され、そして実践へと導く場の模索は継続されなければならないだろう。

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