報告:尾辻かな子氏講演

東洋大学社会学部:竹達英司【CGS NewsLetter 006関連記事】

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 2006年5月23日、国際基督教大学において、大阪府議会議員で昨年レズビアンであると公表した尾辻かな子氏による講演会「『虹色』の社会を目指して」が行なわれた。  私自身は当事者、つまり一男性同性愛者として講演を聴講するつもりでいたが、基本的にはLGBTに対する知識をまだあまり持たない異性愛者の方にも解りやすい講演であった。

 カミングアウトの持つ意味、教育の中での同性愛者への無関心、LGBT当事者たちの中にも亡霊のようにとりつくホモフォビアなど、同性愛をとりまく状況に関する基本的な知識を中心に、公演内容は多岐にわたった。しかし中でも特に印象的だったのは、尾辻氏自身のセクシュアルマイノリティとしてのライフヒストリーだった。自身が受けたいじめや抱いてきた劣等感、自分がセクシュアルマイノリティであることを否定し続けた青春時代の話、中でも「この気持ちを認めたら、何か大変なことが起きるのではないか」と感じていたという話に、私自身、大変共感する所が多かった。
 私事となるが、特に思春期から青春期にかけての時間は、現在のようにインターネットやEメールを自由に使える環境になく、自分の受けた苦しみや恐怖という体験を共有できる仲間もいなかった。社会に蔓延するホモフォビアや無関心を一身に受け、事実上孤立無援状態である中、自身のセクシャリティを必死に否定しながら生活せざるを得なかった。こうした体験を踏まえると、当日配布された資料にも出ていたLGBTへの調査「自殺を考えたことがある=64%」「自殺未遂の経験がある=15.1%」という結果にも、充分リアリティを感じることができる。
 尾辻氏自身もそういった体験の中から、多様な個性のひしめく都市という空間に身を移し、その中で「自分へのカミングアウト」を果たした。つまり自分の気持ちを認めても「何か大変なこと」は起こらないと思うようになり、セクシュアルマイノリティであることを否定することをやめたのである。そしてレズビアンのイベントに参加するようなるものの、そこにはまた別の問題が待ち受けていた。
 レズビアンのコミュニティでは本名や住んでいる場所を隠さなくてはならなかったが、尾辻氏はこのことにも疑問を感じるようになるのである。しかしこのとき尾辻氏は、本名や住んでいる場所を隠さなくてはいけないのは「自分の気持ちを認められていないから」といった個人的な理由によるものとは考えなかった。
 むしろ「これは私たちの問題ではなく、社会の問題なのではないか?」と、個人の問題からコミュニティの問題、最終的には自分たちに対して無関心であり続ける社会の側に問題があるのではないかと、問題を捉えなおしたのである。ここで社会の側の無関心がいかに抑圧的であるかに目をむけたことが、政治の世界に興味を持ち始めるきっかけになり、やがてカミングアウトへともつながっていった(もちろん氏は社会の理解が低い現状でのカミングアウトの危険性も指摘し、するかしないかは完全に個人の自由であると述べられた)。
 講演会終了後、ICUの会議室にて尾辻氏と学生たちとの交流の場も設けられた。それぞれ自己紹介をする中で、自然と本名や所属する大学、セクシュアリティを公言した。過去にLGBTの友人と会った時に「本名や住んでいる所をなぜ隠さなくてはならないのか?」と疑問に思った経験を持つ尾辻氏にとっても恐らくあの光景は新鮮に映ったと思われるし、それまでゲイのクラブやバーでなんとなくフルネームを名乗ることの少なかった私自身も、その後いろいろな場所でフルネームを名乗るきっかけとなる瞬間でもあった。こんなところからも、カミングアウトが重要な意味を持っているということを実感させられた。
 自己紹介が進んで行く中で、最も印象に残った場面がある。それは「異性愛者のカミングアウト」だ。あの場に参加した学生の多くはセクシュアルマイノリティであった。しかしジェンダー・セクシュアリティ研究に興味を持つ異性愛者の女性がいたのを鮮明に覚えている。彼女が自己紹介をする際、「なんだかこの中にいるとわたしがマイノリティになりますね。」と微笑みながらおっしゃっていたのも覚えている。ああいった場に異性愛者の方が来られるということ自体、とても重要な意味を持つと思う。私たちセクシュアルマイノリティにとって、自分のセクシュアリティをカミングアウトするということは、するかしないかという選択のいかんに関わらず、ある種の命題として、避けて通れないもののように思われる。そして、それゆえにカミングアウトという体験に伴う複雑な心理状態は、なかなか異性愛者の方に伝わりにくい側面を持つ。しかしああいった空間においては、程度の差はあれカミングアウトという体験を異性愛者の方が疑似体験する場にもなりえることに気が付いた。そもそも「異性愛者」と言う言葉を自分で名乗ること自体が、今まで疑いもしなかった社会通念を疑うきっかけになるのではないだろうか。
 その社会通念がいかに疑われることなく自明のものとされてきたかを解りやすく示した例がある。辞書である。岩波書店の広辞苑第5版を引いてみると「異性愛」「異性愛者」という言葉はどこにも存在しないことがわかる。一方「同性愛」という言葉はきちんと掲載されている。つまりこれは、同性愛という現象が「見られる対象」として周辺化されている一方で、異性愛とは改めて説明をする必要もないほど自明のものであるという認識がその裏に隠されているのである。この例が端的に、この社会が「強制異性愛社会」であることを示している。しかしそのような社会の中で「異性愛」「異性愛者」という、一見違和感のある言葉を知ること、あえて自称することで、異性愛という性的指向も数あるセクシュアリティのうちの一つであるという認識が生まれるだろう。私は彼女の「異性愛者のカミングアウト」を目の当たりにして、「異性愛者」という言葉に含まれる思想が異性愛という現象を相対化させ、セクシュアルマイノリティとストレートとの間の権力関係を平等なものにするものであることを確信した。(キース・ヴィンセント他「ゲイ・スタディーズ」P99参照)


※編集部より
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