ジェンダー概念シンポジウム報告

ICU 学部:川口遼【CGS NewsLetter 006掲載記事】

 2006年3月25日、港区男女平等推進センターにて「ジェンダー概念について話し合うシンポジウム」が開催された。ウェブサイトで公開されている開催趣意にもあるとおり、本シンポジウムは、いわゆる国分寺市事件を受けて開催されたものではあるが、性差別撤廃を目指す研究や運動への反対運動、近年激しさを増してきた一連の「バックラッシュ」全体への対抗をも目的としている。主催は同シンポジウム実行委員会、後援はイメージ&ジェンダー研究会、日本女性学会である。

 国分寺市事件とは、2005年夏、東京都国分寺市が、市民を交えて企画していた人権学習講座で、上野千鶴子氏を講師に招こうとしたところ、委託関係にあった東京都教育庁が「上野氏は女性学の権威であり、ジェンダー・フリーに対する都の見解に合わない」と委託を拒否し、そのため講座自体が中止となった事件である。このことが2006年1月に公になり、若桑みどり氏を発起人とし、研究者らが東京都への抗議文を作成し、1808人の個人と6団体の署名が集まった。この抗議活動の中で「これまで、ジェンダー概念についての意見交流が、市民、研究者、行政、メディア相互の間で不十分ではなかったか?」という反省がなされ、今回のシンポジウム開催につながった。本レポートでは、まずシンポジウムの流れを解説し、続いて私の感想をのべる。ここでは、私が大学で男性学の視点からジェンダー/セクシュアリティスタディーズを学んでいることを踏まえ、アカデミズムが現在の反動的状況に対してどう対応すべきかについて論じたい。

 シンポジウムは、まずパネリストの発表から始まった。具体的には、江原由美子氏ら研究者によって「ジェンダー概念」をめぐる最近の議論とその定義が整理され、続いて「ジェンダー・フリー」についての教育学および現場の教育者の理解や実践上の問題、市民およびシャーナリズムでの「ジェンダー」の受け取り方の問題などが提起された。パネリストの発表後は、教師や地方議会議員、市民活動家など日本全国から200名以上あつまった参加者が、「ジェンダー・フリー」とそのバッシングについて議論した。この参加者による議論では、フェミニズム自身による「ジェンダー・フリー」批判について特に時間が割かれた。もともと、これまで広く使用されてきた「男女平等」という言葉の代わりに「ジェンダー・フリー」という言葉を使うようになったことに関しては、フェミニズム内部からもたびたび疑問視する声が挙がっており、この点が再び問題とされたのである。また、一連の「バックラッシュ」に対するアカデミズム側の反応の遅さに対しても批判がなされた。確かに東京都では、遅くとも1990年代末にはすでに議会において女性政策への批判が始まっていた。その反動ぶりは、教育に限っても、2003年の七生養護学校性教育への都議および都教委介入事件、2004年の「ジェンダー・フリー不使用の見解」発表とジェンダー・フリーに基づく男女混合名簿作成を禁止する通達などに明らかにあらわれている。しかし、東京在住の研究者らがこれらの問題に対し、団結して行動するということはなかった。活動家や教育関係者を交えて一連の「バックラッシュ」に対抗しようとする試みが、「女性学の権威」である上野千鶴子氏をめぐる国分寺事件をもって開催されたところからも、反応の鈍さが伺えると言えよう。

 今回、提起されたさまざまな批判は間違いなく的を射たものであるが、議論が「ジェンダー・フリー」概念の定義やその妥当性をめぐるものに終始した点については問題であるように感じた。確かに、「ジェンダー・フリー」の概念とその使用に関してはフェミニズム内部でもいまだにさまざまな議論がなされている。また、その意味するところのあいまいさをバックラッシャーにつけ込まれたことも否定できない。男女平等教育の名の下で行われてきた性教育や男女混合名簿が、ジェンダー・フリーという用語が使われだしてから禁止されるようになったのも事実であろう。しかし、一連の「バックラッシュ」は果たして、定義が使用者や支持者の間でもあいまいな「ジェンダー・フリー」という用語を使ったという、その一点にのみ反対して沸き起こったものだといえるだろうか?そうではないだろう。シンポジウムでも指摘されたように「バックラッシュ」言説はそもそも事実誤認がはなはだしく、例えば指摘する「過激な」ジェンダー・フリー教育や性教育の実例すら裏を取っていないものが殆どである。つまり、語の概念・使用法があいまいである、という合理的な判断がその背景にあるはずも無いのだ。このことが示すのは、たとえわれわれが、より定義が明確な「男女平等」という言葉を使い続けていたとしても、「行き過ぎた男女平等」と“名前を変えて”批判された可能性も否定することは出来ないということである。「バックラッシュ」がおきるには、用語の曖昧さだけではなくそれなりの社会的背景があるはずだ。「バックラッシュ」に対抗するには、この点に対してもっと考察を重ねて行かなくてはならないのではあるまいか?

 一連の「バックラッシュ」に対しては、このシンポジウムでなされたように、フェミニズムおよび研究者コミュニティーの中で「ジェンダー・フリー」概念とその使用の妥当性について議論することもたしかに重要だ。しかし、それだけではあまりにも後ろ向きである。そもそも「ジェンダー・フリー」概念についてすべての人が統一的な見解を持つことはおそらく不可能であろうし、また、例えできたとしても、その統一見解が「バックラッシュ」を食い止め、「ジェンダー・フリー」なり「男女平等」なりを推進するための有効な手立てとなるとは言えないだろう。われわれは、むしろその社会的背景を明らかにしていかなくてはならない。アカデミズムはそのために、一体何ができるだろうか。

 保守系メディアで始まった反フェミニズムキャンペーンは、いまや地方行政のみならず国政にまで食い込み、東京都のみならず各地で実質的な揺り戻しが起きている。前述のとおり、「バックラッシュ」言説は、事実誤認がはなはだしく、例えば指摘する「過激な」ジェンダー・フリー教育や性教育の実例すら裏を取っていないものが殆どである。それなのになぜ、このような揺れ戻しが少なくともある程度の支持を受けているのだろうか。「新しい歴史教科書をつくる会」メンバーらがマスメディア上でネガティブキャンペーンを行ってきたが、それはどのような人々に、そしてまたなぜ支持されているのだろうか。アカデミズムは、こういった「バックラッシュ」の支持者について考察することで、これまでもフェミニズムの議論の深化に寄与してきた。

 例えば、佐藤文香は『論座』2006年4月号において、一連の「バックラッシュ」がいわゆる保守層とは別に、高年齢の主婦層と若年の下層男性労働者層に支持されている可能性を指摘している(佐藤 2006)。そして、なかでも“独身”の若年男性に関しては、自らが「結婚」と良い「会社」への所属という日本社会における「男であること」の二大要件を満たしておらず、規範からはずれているという不安から「バックラッシュ」に勤しんでいるのだとも推測されている(海妻 2005)。残念ながら、これらの議論はいまだ推測の域を出ておらず、学術的に十分に検証されているとは言えない。しかし、「男らしくない男がそれ故に男らしさを求めている」という海妻の主張は特に男性学、男性性研究において極めて重要な視点であろう。社会的に押し付けられた「男らしさ」の基準を満たせない男性たちの不安・不満が、「男らしさ」強制社会に対する不満、抵抗として形をとるのではなく、別のルート(男女平等やフェミニズムへの反対運動)を模索してでも、あくまでも何らかの「男らしさ」の完成を目指す形をとっているのが現状だというのならば、今こそ男性学の出番であると言えるからだ。男性学は、つねに「男らしさ」とその社会的強制を問題にしてきたが、現在はその「男らしさ」がもっとも特徴的かつ顕著なかたちで社会に立ち現れている時期なのである。そして、海妻の推測が正しければ、これはフェミニズムにとってのチャンスでもある。日本政府の男女共同参画政策は、日本社会における少子化やネオリベラリズム化の潮流ともちろん無関係ではない。しかしそれは、そういった行政側の意図からもすでに離れて、確かに今までのあるべき「男性性」といったものを確実に変容させてもいる。このことはよりよい社会のあり方を創造しなおす絶好の機会にもなり得るだろう。そして、極めて素朴かつ希望的な観測を述べれば、「もてない」、「仕事がない」、つまりは「男らしくなれない」とふきあがっているネット上の男達がこの流れを正しく受け止めることができたら、彼らはこれまでとは別の「男性像」を描くことができるのではないか。押し付けに過ぎない「男らしさ」の価値に疑いの目をむけることができるようになるのではないか。そして、この点を踏まえれば、フェミニズムの影響下にあるアカデミズムが発信すべきは、「ジェンダー・フリー」批判や「バックラッシュ」批判だけにとどまらず、むしろ別のメッセージこそが重要であるといえるだろう。

 私の目には、「バックラッシュ」に加担する男たちが辛そうに見えてならない。少なくとも、楽には見えない。彼らがもし苦しんでいるとして、一つだけ言えることは、それはフェミニズムのせいではないということだ。むしろ、彼らがはじき出され、そしてはじき出されたが故により強くコミットしようともがく当の「男らしさの規範」こそが、彼らを苦しめているのである。フェミニズムの影響下にあるアカデミズム、特に男性学は、この男らしさの規範が日本社会において、どのように形成され、またどのような働きをしているかを明らかにすべきではないだろうか。この際、男性性を個人の心理的な問題としてのみ扱うのではなく、階層、文化、労働、セクシュアリティなど構造、制度に関連づけて議論するべきだろう。なぜなら、別の男性像を構築するには、自己啓発ではなく社会変革が必要とされるからだ。いま「バックラッシュ」に加担している彼らの目が男性性の(再)獲得にのみ向かうのは、他でもなく、男性の生き方が個人の心理的な問題として広く認知されてきたことにも原因がある。現状を変えるためには、彼らに現状の社会とは何か別の社会のあり方を求めるという道があるということ、つまり別の働き方、別の性のあり方、別の愛のあり方があるということを具体的に提示するべきではないだろうか。

 シンポジウム会場に入り、200人以上の参加者を観たとき、私は少しばかり感動した。第1次フェミニズム、ウーマンリブから続く性差別撤廃への願いと行動、それは確かに今に受け継がれている。私がこうして大学でジェンダー/セクシュアリティ研究を学べることも、先人達が活動してきたおかげであることを改めて思い知らされた。そして、おそらく前述した課題は私たちの世代が前の世代から受け継いだバトンなのだと思う。そしてそれは、とりわけヘテロセクシュアル男性である私自身の課題である、と考えている。


参考文献
佐藤文香 「フェミニズムに苛立つ「あなた」へ」 『論座』2006年4月号 朝日新聞社
海妻佳子 「対抗文化としてのフェミナチ」 木村涼子編『ジェンダーフリー・トラブル』 白澤社 2006

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