ICU学部:金子活実【CGS NewsLetter 007掲載】
2006年10月6日、COE/ジェンダー研究センター共催国際ワークショップ2006のプログラムの一環として、パフォーマンスアーティストであるイトー・ターリさんの公演「<身体の知>とパフォーマンス」がICUで行われた。公演は二部から構成され、昼の部では、ターリさんのパフォーマンスの軌跡を記録したドキュメンタリー「Dear Tari」の上映、夜の部ではパフォーマンス「恐れはどこにある2006」の上演があった。作品の上映、上演後にはアーティストを囲んでトークの場が設けられ、アジア各国から参加した研究者や医療関係者と一般の学生が双方向に感想を交換する場となった。およそ半年に及ぶ準備期間を経て実現したこのパフォーマンス公演に関わったひとりとして、私が感じたことを言葉にしたい。
1996年にパフォーマンスを通してレズビアンであることをカミングアウトしたアーティストの存在を知って、ICUに呼びたいと思ったのがこの企画の始まりだった。当時私は、ジェンダー研究センターで尾辻かな子さんの著書「カミングアウト-自分らしさを見つける旅」の読書会を担当しており、セクシュアリティのカミングアウトについて考え始めていた。自分のセクシュアリティは何なのかという、なかなか答えがでない問いに戸惑っていた当時の私にとって、カミングアウトするパフォーマンスを観たいと思うようになったことは自然な流れだった。"生活のなかにテーマを求め、生きることそのままを表出させる"というターリさんのパフォーマンスアートを、生活すること、生きることを実感することが難しいこの大学という場所で観ることができたら、という思いから、この企画に関わろうと思ったのだった。
昼の部で上映した「Dear Tari」(2000年制作)は、1996年を中心にターリさんのパフォーマンスの軌跡を追ったドキュメンタリーだ。ターリさんと彼女の周囲の人とのつながりのなかで"カミングアウト"を描いている。カミングアウトした一人のアーティストが、日本社会で生活するなかで抱いた違和感から出発し、発表してきた作品を紹介する。"結婚するのか""子供はいないのか"と女性に向けて発せられる問いに強張る身体、床に貼ったゴムの間をもがきながら進むその身体の感覚をターリさんは表現した。上映後のトークでは、学生から様々な感想が出た。なかでも印象的だったのは、カミングアウトしたターリさんに対する周囲の反応の中にある、レズビアンの欲望の不可視化が、レズビアンの存在を見えないものにしているのだという論点が出たことだった。
夜の部で上演されたパフォーマンス「恐れはどこにある2006」は、多目的ホールの平らな床を利用して、観客が円を描くように座る真ん中で上演された。研究者、産婦人科医、カウンセラー、国際機関で活動する人や、学外からの来場者、学生など、60名を超える観客がターリさんを囲んで息を潜めた。パフォーマンスは暗闇の中から弾けるような音とともに始まり、ホールの中ほどの四角い枠の中に座るターリさんの姿を、取り付けられたカメラがスクリーンに映し出す。ターリさんは胎児のように身体をまるめうごきながら音を出す。かちっかちっと歯から音が聞こえるかと思うと、身体を愛撫する衣擦れのような音がする。音はだんだんのどの奥から声にならない嗚咽のようになんどもなんどもこみ上げてきた。音がぴたっと止まると、スクリーンに映るターリさんの横に、尾辻かな子さんの映像が声とともに流れ始める。大阪府議員として初めてレズビアンとしてカミングアウトした尾辻さんが、カミングアウトしたときの周りの反応を話している声と混じって、会場にはシューシューという音が響く。音を背に、ターリさんは一人もくもくと暗闇のなかで枠に糸を巻きつけ始めた。シューと鳴る物体は枠の中でどんどん膨らみ、照明の下でごろんとひきかぶるように取り出されて、とうとうおおきな乳首を現わした。
だんだんとまるくなっていくひとつの大きな乳房は、ターリさんにつつかれ、彼女の身を受け止めて、ゆらゆらぷくぷくと転がった。乳首を愛撫し、身を投げ出すように遊びながら、ターリさんは観客に向かっておっぱいを転がす。あっちへこっちへ、身を縮めて座る観客の頭にぶつかりながらおっぱいが転がって中心に戻る。「すぐ返ってきちゃうんだよね、なんで?」ターリさんが観客のほうへもう一度おっぱいを投げると、おっぱいはすぐにターリさんの元へ返っていった。「ほら、また返ってくる」ターリさんの声とともに大きな乳首がこちらへ向かってくる。「Hey, that yours!」跳ね返ってくるおっぱいを楽しそうに追いかけながら、ターリさんは声を上げた。私は、いまにも自分のところに転がってきそうなおっぱい、その巨大なおっぱいを、受け止められないという思いで、蹴り返したいというような敵意さえもって見つめていたのだった。
パフォーマンス終了後の場に集った国際ワークショップの参加者と学生から、たくさんの感想が飛び交った。女性の身体、出産やドメスティックバイオレンスなどのカウンセラー、医師など専門職についている参加者からは、女性のおっぱいをパフォーマンスで使う楽しさや観客にもたらす影響に関して発言があった。性暴力を受けた女性のエンパワメントになるかもしれないという発言や、おっぱいが大きくなっていく過程が女性の成長の過程を見ているようだったとの感想もあった。ターリさんは、過去にパフォーマンスで女性器のオブジェをつかったときには、男性も女性もほとんど話題にしなかったと言って、おっぱいには色んな人が色んな感想を寄せてくれると楽しそうに話した。レズビアンの受ける苦痛ではなく快楽を前面に出したという今回のパフォーマンスはしかし、女性の身体を持つ私にとても不思議な感覚をもたらした。身体をテーマにレズビアンのセクシュアリティを楽しむパフォーマンスを観て、私は投げつけられるおっぱいにのまれそうになる自分の身体を、おっぱいを嫌悪し、切り離したいと思ったのだ。それは、レズビアンのセクシュアリティに対する私の拒絶感ではなく、巨大なおっぱいに吸い込まれそうになっている"自分のおっぱい"を、あらためてちゃんと意識したいという気持ちだったように思う。
大学で勉強する自分、東京で生活する自分、パソコンのキーを叩きレポートを量産する自分、そうした自分が何をしたいのかわからないまま岐路に立っておろおろしている、そんな日常に対する嫌悪にそれは似ていた。毎日スーツを着て出かける同級生をうらやましく思えない焦り、逃げても答えの出ない問いをつきつけられたときの感覚だった。それは言い換えれば、"スピリチュアル・カウンセラー"のライブがテレビで放送され、占い師の発言がお茶の間をにぎわせる昨今の状況を疎ましく思いつつも、実態のない言葉に惑わされそうな雰囲気をどうにもできないという虚無感を抱いていた私の、生の感覚としての拒絶感でもあった。"多様な他者と生きる"という言葉がもはや個人間の断絶をしか意味しないと感じる生活のなかで、消費だけし、される関係を拒絶したいという思いがわきあがってきての、"おっぱいを蹴りたい"という感覚だったのだ。
自分のことを、自分でちゃんと感知したい。自分の身体を見失って自分の痛みを感じられなくなってしまったら、想像できない他人の痛みがあることを忘れてしまうのかもしれない。この企画を通してレズビアンのセクシュアリティに居場所をつくろうとしていた私には、レズビアンに寄り添って存在することが許されたら、という願いがあったのかもしれない。しかしパフォーマンスに圧倒されるなかで、最終的には、知らないうちに自分の居場所が隠れてしまわないように立ち上がらなければと思ったのである。寄り添って成り立つセクシュアリティでも、定義にあてはめるセクシュアリティとも違う、私の楽しいセクシュアリティに居場所をつくってあげたいといまは思っている。それなくして、他者に居場所をつくることはできないように思う。この機会を実現させてくれた二人のアーティスト、イトー・ターリさんと山上千恵子さん、それから、企画書に花丸をくれた田中かず子先生、運営にあたって支えてくださった加藤恵津子先生と、準備段階から協力してくれたたくさんの友人に心から感謝する。