「デートDV―お互いを尊重した恋愛を考える」

ICU学部:海老本舞【CGS NewsLetter 007掲載】

「あれってDVだったんだ…」
 講演直後に客席の中から自分の過去を振り返る声が聞かれた。10月19日、第9回人権セミナー『デートDV―お互いを尊重した恋愛を考える』が、DVサポートグループ「レジリエンス」より中島幸子氏と西山さつき氏を招いて行われた。満員になった教室が、デートDVという聞きなれない言葉への学生の関心の高さを伺わせる中、講師自らの体験に基づく講演は静かながらも聴く者一人ひとりに迫る内容であった。デートDVとは、夫婦間以外のパートナーシップにおける精神的・身体的及び性的暴力のことを指すが、講演自体はデートDVに限らずDV全体の仕組み、影響、原因といった背景的な説明から、相談された場合の対応、またパートナーから離れられない理由を考察した上での回復の道のりなどといった実際的な知識まで多岐に渡った。DV自体の紹介に留まらずに、相談された側の注意すべき点やサポートグループへのアクセスが紹介されていたことによって、聴く者がDVの認識だけでなく当事者及びその周囲の人が具体的な行動をとることが出来る様に構成されていた。更に講師二人がそれぞれに「婚姻外の関係における身体的暴力」の経験と「婚姻内における精神的暴力」の経験を語ることにより、DVは婚姻内だけ・身体的暴力だけといった偏見を払拭する効果があった。

 私はこの講演で体験者が話すことの重要性を再認識したように思う。デートDVと聞いて抱きがちな「結婚していないならすぐに別れれば良い」という思い込みや、被害者は特別な人間だという偏見を体験者の声は打ち壊す。悲しいことではあるが、実際にあった痛ましい出来事や苦しみは、何より説得力を持って聴く者に迫るからである。そしてまた、過去の経験であれ現在の状況であれ、自らの体験をDVだと認めることは恐怖を伴う作業であり、だからこそ非常に困難だが、それを実際に乗り越えて回復した経験者による講演は、自らの体験を見つめなおす後押しをしてくれるように感じた。自分と似たような経験が第三者から語られるという体験は、単に客観的に自分を見つめなおす良いチャンスになるというだけでなく、講師を一種のロールモデルとしておいた上で、自らの体験を見つめなおす手助けになるだろう。ロールモデルがいれば、自らの体験したことがDVであったことを認めるという困難な作業に乗り出すときにも、“あの人たちが大丈夫だったのと同じように私も大丈夫だ”、という意識を与えてくれるからである。講演後に聞かれた呟きは、もしかしたら誰かがそんな風に背中を押されたというあかしかも知れない。

 講演によれば、DVの最大の原因はパートナーに対する尊重の欠如であるという。相手の意見や交友関係から日常のちょっとした習慣まで、「愛している」ことを免罪符に自己を押し付けることがあらゆる暴力の始まりとなる。束縛や独占欲を至上の愛の形と称した歌や漫画が売り出されているが、裏を返せばそれは単に尊重のない関係である。パートナーとの間でどちらの考えが正しいのかを競い、一方の答えが他方を打ち負かすような関係性を維持するのに腐心するのではなく、両方の考え方があって良い事をお互いが認め、また自分の気持ちはきちんと言葉で伝えることが相手を尊重することに繋がる。こういった態度はあまりに基本的で当たり前のことに聞こえるが、それが出来ないが故にDVは無くならない。例えば、パートナーが自分から離れて行ってしまうのではという不安を感じている場合、その不安に対処しようとして相手の行動を物理的又は精神的に規制して繋ぎとめようとする行為は暴力と言える。これは言い換えれば、自分の不安だという気持ちを言葉で伝える代わりに、相手の気持ちや都合を無視した支配によって解消しようとする行為である。しかしこのような場合でもDV以外の結末はもちろんありえるのだ。自分の不安を言葉にして相手に伝え、また相手からも気持ちを伝えてもらう中で、どちらが正しいのかを競おうとするのではなく、両者の考えを尊重した上で解決策を見出そうとする姿勢を持つことが出来れば、暴力を必要としない関係性を築く事は可能だ。そして(互いの考えや立場のどちらが正しいのかをいきなり競おうとするのではなく)、お互いの考え方をいったんよしと認めるということは、相手を尊重することや自分の行動が相手にどのように影響するかを想像する力なしには成立しないものなのである。

 この講演ではそういった尊重と想像力を基本とする姿勢の大切さを再確認すると共に、シェルターの圧倒的不足が指摘される日本のDVの現状を考えるにつけ、想像力を持ち相手を尊重する関係性の実現が、パートナー関係のみならず実はいたるところで緊急の課題となっていること、またそれゆえにそういった関係性の実現がいかに困難であるかも改めて感じさせられた。想像力と尊重は、DVの加害者だけでなく被害者の周辺の人々にも求められるものである。DVの被害者は、加害者からの強制、もしくは精神的に追い詰められたが故に、それまで築いてきた人間関係から孤立してしまうことが多いが、残っている数少ない交流者も対応を間違えれば被害者を更に追い詰めることになってしまうからだ。第三者の目線から見れば暴力に遭いながらもパートナーから離れられない被害者の行動や思考は理解しがたいものであり、それゆえになぜ別れないのかと質問攻めにしたり、別れないのはおかしいと非難したり、加害側のパートナーとも知り合いである人ならば、自分から相手に注意をしようと言い出すこともあるだろう。これらは被害者に良かれと思って周辺の人々がとってしまうありがちな行為であるが、今回の講演ではこのような行動が実は、立場によって見え方の異なる複数の現実の中から、第三者の目線のみを被害者に押し付ける結果になると指摘されていた。

 被害者がパートナーとの暴力的な関係性から抜け出せない、もしくはそれが暴力であると認められない理由は様々である。本当にパートナーから逃げ出す為には仕事や住居、それまでに築いてきた人間関係を捨て去る必要がある場合もあるし、例え暴力を振るう相手だったとしても、生活や精神の大半を支配していたパートナーを失くして一から自分自身を構築し直すことは、それだけで大きな不安を伴うものである。被害者が暴力的な関係から抜け出せないのには、このほかにも第三者には見えない幾つもの事情が複雑に絡まりあっている。講演では、パートナーとの関係から脱却することを「崖っぷち」に喩え、飛び降りる事に死ぬほどの勇気が要る事をわかり易く示していた。最終的にパートナーと別れるまでには平均して5~8回の付き合いと別れを繰り返すという。DVにより自己が萎縮した状態で別れるので、生活の殆どを埋めていたパートナーの支配が無くなることによって生じる「空虚」を埋めようとしてパートナーの元に戻ってしまったり、他の物に依存したりしてしまう時期があるのだ。これも第三者からしてみれば「せっかく別れたのに理解できない」と思われがちであるが、DVにより極限まですり減らされた「自己」や「生活」、「人との繋がり」を回復するのは一朝一夕にはいかないのである。

 では、被害者の周辺の人々はどのように対応すればいいのか。講演ではDV被害者から相談を受けた場合には“できるだけたくさんの「トランプ」を渡してください”と助言していた。第三者からの見解を押し付けるのではなく、周囲が見えない状態に置かれている被害者に「このような方法もある」「こんな可能性もあるのでは」と持ち得る限りの札を示してみせるのだ。そして“もし手札がないのならば、ただ聴く事を行なってほしい、必ずしも解決策を示す必要はない”と講演は訴える。話を聴く場合にしても、なるべく被害者が安全でいるにはどうすれば良いのか、という視点で話し合うことにより、被害者の焦点をパートナーから被害者本人に向けさせるなどの努力は出来る。但し、加害者であるパートナーの悪口や、別れを勧める発言には注意が必要だという。被害者にとって加害パートナーと相談者とでは相談者との関係の方が断然切り易いものである。だから、被害者からしてみたら別れられない状況なのにも関わらず、「別れろ」だとかパートナーの悪口を言われる事は、被害者が暴力から逃げ出す後押しをするどころか、逆に相談者から遠のかせてしまいかねない。サポートする側には、被害者がDVを脱却するまでに要する長い時間を見守る忍耐力と、第三者の目線以外に被害者の立場に思いを馳せられる想像力が重要なのだ。

 講演内容の中から、周辺の人々の対応に関する部分を重点的に取り上げた理由は二つある。一つは、この記事を読む人の中に、知り合いにDV被害者と思われる人がいる可能性を考えた為、そしてもう一つは、講演で紹介されていた幾つかの間違った対応の仕方は、相談内容がDVに関するものであるなしにかかわらず、私たちが周囲の人々から何らかの重要な相談を受けた場合に冒しがちな間違いであると痛感しているためだ。ジェンダー間の権力差に問題意識を抱いているフェミニストや、フェミニズムに親和的な立場をとる人間は、一見その手の相談にもきちんと対応できるように思える。しかし例えば友人から、学校や職場でセクシャルハラスメントやパワーハラスメントに遭っていると相談を受けた時、友人の直面する不当な現実に腹を立てるあまり、「そんな職場は辞めればいい」「なぜその状況に甘んじているのか」と、つい第三者からの目線のみで物を言ってしまい、結果的に被害者自身の対応を非難するような言葉になってしまいがちだ。確かにそういった現実は不当なものではあるが、だからといって周辺の人々の対応が被害者への無理解やその孤立を生み出すものであっていいはずはない。もちろん現実の不当さに憤っていないからといってこういった過ちを犯さずにすむというわけでもない。また、相談された者の中には世の中が公正である筈だと信じるあまりに、“そんな不当な事は普通の人には起こるはずがない”という考えから被害者に「何かつけこまれる落ち度があったのではないか」と友人の粗捜しをする人も実は少なくないのである。

 いずれにせよこのような対応の誤りは、不当な現実への怒りや公正な世の中への信奉から生まれているものではあるが、実はいずれの場合もそれだけで説明しきれるものではない。そこには≪被害者に落ち度があるはずだ≫とする強姦神話と根を同じくする意識が、強弱の差はあれ、間違いなく存在している。被害者への無理解と孤立を引き起こしているのは、被害者の責任ばかり問いただし、被害者を責任能力のある人間として尊重せず、あるいは古典的な性役割を当然として、被害を受ける様々で複雑で個別的な(その多くは人間として当然な)“致し方なさ”を認めないこの強姦神話なのである。そして悲しい事に、これらの誤りは誰もが犯し得るものなのだ。

「セクハラやパワハラのある職場なんて辞めれば良い」と安易に口に出す前に、「こんなに苦しんでいるのにそこから脱出出来ない事情とは何だろう」と思いを馳せること、そして被害者を質問攻めにする前に、自分の持てる限りの可能性を示して、被害者が安全になるにはどうしたら良いのかを話し合う事が求められている。講演において指摘された、尊重と想像力を基本とする周囲の人々の対応の仕方は、パートナーシップの問題に限らず、ジェンダー・セクシュアリティに関するあらゆる問題に取り組む上での基本であり、あらゆる暴力に対抗する上で被害者を孤立させない方法を示す非常に意義深いものであった。
 講演では被害者とその周辺の人々の他にも、加害者側のケアに焦点を当てた「aware」という民間機関の紹介もなされており、詳しくは「レジリエンス」及び「aware」のウェブサイトを参照して頂きたい。

「レジリエンス」:http://www.resilience.jp/
「Aware」:http://www.geocities.jp/www_aware_cn/

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