フツーに動いてみたGAYのこれから

ゲイ/アクティヴィスト:akaboshi【CGS NewsLetter 007掲載】

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単なる小心者だったんだと思う。15年間も僕は、「ゲイ」である自分を見つめることから逃げ続けていた。

中学の時に後輩の男子を好きになったが、彼が風邪をひいたときに「大丈夫?」と手紙を渡しただけだった。思春期に身体が「男」として成長するにつれ、「男を好きになる男」である自分にすぐ気付いたのだが、女の子と付き合ってしまって彼女を傷つけたりもした。

いわゆるありがちな「ゲイ」のライフヒストリー。「ゲイ」である自分を認めず、考えるのが億劫だから考えない。考えると「イケナイ世界」に自分が引き込まれるような気がしていたし、面倒くさいことになるような気がしていた。だから音楽や演劇や映画制作など、その時々の関心事に過剰なくらい熱中し、近視眼的に楽しんではいたものの、本当に自分が解放されたと感じたことはなかった。大事なことからは逃げ続けるばかりの日々だった。

「今年こそは誰かとセックスできますように。」
30歳を目前にしたとき。ふと正月の初詣で、そう願っている自分に気が付いた。フラストレーションの塊みたいで自分でも笑ってしまったが、人と深く関わり合ったり付き合うことが苦手な自分のままでは、この目標を達成することは一生出来ないのかもしれないと思っていた。いろんなことが空回りしている。人とわかり合いたいのにわかり合えない。こんな空疎な人生が、このまま何十年も続くのかと思うと暗澹たる気持ちになった。このままでは危ないなぁと思った。

自分の中には暗闇がある。そこを覗くのは怖いけど、いつか覗いてみなければきっと先へは進めない。「イケナイ世界」は本当に「イケナイ世界」なのか?暗闇は本当に暗闇なのか?もう先延ばしにするのはやめよう。そう思い、「ゲイ」が集まることで有名な街に恐る恐る行ってみた。本当に怖くて震えた。でも目標は案外簡単に達成でき、あまりにも呆気なさすぎるもんだから笑ってしまった。

2005年初夏。折からのブログ開設ブームの中、ネット上にakaboshiというハンドルネームで「フツーに生きてるGAYの日常」というブログを立ち上げた。日常では表に出せない自分の中の「ゲイ」の部分を解放し、見ず知らずの人と言葉を交わす。熱中した。そうしていつしか「ゲイであること」について考える時間が、僕の日常の中に組み込まれるようになった。

1年が経った。次第にakaboshiという自己がブログ上では飽き足らず、リアルな世界と接触したがっていることを感じるようになった。ちょうどその頃、大阪府議でレズビアンであることを公表している尾辻かな子さんらが「Act Against Homophobia」というキャンペーンを展開していた。このことを知った時、それまでは「活動」をしている人たちのことを敬遠し、斜に構えて他人事として見つめていたはずのakaboshiが、平静ではいられなくなった。僕が抱いた「イケナイ世界」という幻想は、Homophobia(同性愛嫌悪)がもたらしているものだと明確に意識できたからだと思う。胸が騒いだ。そしてとりあえず、5月17日に新宿で行われる街頭アクションを、こっそり見に行ってみることにした。

新宿駅の南口は、小雨で人通りが少なかった。そんな中でも懸命に、素顔をさらして堂々と「反ホモフォビアの日」をアピールしているLGBT当事者たちがいた。その活動の光景はあまりにも小さくささやかなものであり、ズキンと胸が痛くなった。僕は何をしているんだろう。恐る恐る遠巻きに眺めているだけの自分が途端に阿呆らしく思えてきた。しばらく周囲をウロウロした末に「参加しよう」と決意して新宿南口に戻ってみたけれど、残念ながら既にアクションは終わっていた。

昂ぶった気持ちがこのままでは治まらない。そのまま新宿二丁目の「akta」で行われた活動報告会に潜り込んだ。そこには、それまでの僕が思い描いていた「活動家イメージ」とは程遠い素朴な人たちが、尾辻さんを中心に柔らかな雰囲気の中で語り合っている姿があった。この日、僕の中で大きなものが音を立てて崩壊した。

翌週の5月23日にICUで行われた尾辻かな子さんの講演会に出かけた。ほぼ同年代である彼女が社会のあり方を批判したり、当事者たちを鼓舞するために語りかけている。「心の性」と「身体の性」と「性的指向」の違いを図にしてわかりやすく説明する彼女。そうしたLGBTに関する基礎知識を、僕らは学校で教わらない。当事者でありながら理解していないことも多く、恥ずかしくなった。もしもこれを思春期に、自分が同性愛者であると気付いた時に知っていたら、どれだけ早く楽に「自分のこと」が受け入れられただろう。僕らは知らないが故に損しているんじゃないか。僕らの問題は「人権問題」なんだという意識が足りなすぎるんじゃないか。そんな思いが沸々と湧きあがった。

7月になると僕は、東京国際レズビアン&ゲイ映画祭のパスポートを購入していた。どうしても全作品を観て、現在のLGBT映画シーンの実情を眺めてみたくなったのだ。7月8日から15日まで青山で行われた映画祭で上映されたラインナップは幅広くバラエティーに富んでいた。そして海外と日本のLGBT文化の温度差は、上映される作品を見れば一目瞭然だと感じた。海外のLGBT先進国では、なんとプライムタイムにレズビアンを主人公にした作品が上映されていたりする。しかもLGBT向けのテレビ局が存在していたりする。発表の場があるということは当然クリエイターを成長させる。しかし日本にはLGBT向け映像メディアが存在しない。

それに日本ではまだ、LGBTであることをカミングアウトした上で映像作品を制作しているクリエイターが少なすぎる。そのためか、表現者同士の「競争」が起こっていない。そんな雰囲気を感じた。

その頃、僕は周囲の可能な人々にカミングアウトをし始めていた。それは自分の気持ちとしては自然な流れだった。カミングアウトの当初は、やはり相当に神経を消耗した。そのため僕はakaboshiとしてブログが書けなくなった。内面の変化が激し過ぎて、何を書いても嘘になるような気がして追いつかなくなったのだ。とりあえず、お得意の「逃亡作戦」を決行し、別の作業に没頭することで逃げてみた。

ブログを書くのをやめ、ネットを覗くのも完全にやめてみたら途端に自分が「ゲイである」ことを意識する機会も時間も激減した。それはそれで楽だったけれども、自分の中で育ちつつあった「akaboshiとしての自己」が消えてしまうような気がした。自分が求めてアクセスしなければ、今の日本のメディア状況では「ゲイ」として感受できる情報はなかなか無い。当事者目線で、当事者からの言葉として、当事者に向けて書かれている表現物の流通量が極端に少ないのだ。だから放っておいたら日常の中でakaboshiは埋没し、消滅して行くのである。

数週間後。ゆっくりとakaboshiとしてのブログ執筆を再会してみた。そして、ブログ仲間から東京でレズビアン&ゲイ・パレードが行われることを知らされた。「街頭をゲイとして歩くだなんて誰かに見られたらどうするんだ。」昨年までの僕はそう思っていたし、全く関心がなかった。しかし、尾辻かな子さんがICUの講演会でパレードの素晴らしさを目をキラキラさせて語っていたのを思い出し、とりあえず見に行ってみることにした。

8月12日の代々木公園周辺には、LGBT当事者が大勢、街頭に溢れていた。それは僕にとって、はじめて見る光景だった。ただそれだけのことなのに胸がいっぱいになり、身体の底から込み上げてくる不思議な感覚に驚いた。主催者の発表によると隊列には2292名、沿道から声援を送ったり、イベント広場に来場した人々を含めると約3800名の参加があったという。見慣れた渋谷の大通りや原宿駅前を、これだけたくさんの当事者たちが自分のことを晴れ晴れと表現しながら明るく歩いている。隊列には参加出来ないけれども歩道橋の上から歩道から、こっそり応援している人たちがたくさんいる。その光景は理屈を越えて僕に「力」を与えてくれた。それは翻せば、日常生活でいかに同性愛者としての自分を抑えて「孤立感」を溜め込んでいるのかということだ。心の中で抑えていたマグマが噴き出したがっているのを感じた。

それから一ヵ月後。9月17日に札幌で行われた「第10回レインボーマーチ札幌」に出かけたのは当然の成り行きだった。飛行機に一人で乗ったことすらない僕が、「ゲイ・パレードに参加するためなら」と会社の有給休暇を調整し、ワクワクしながら飛び立ったのである。札幌ではブログも可能な限り更新しながら、akaboshiが現実世界に触れて変化している喜びをリアルタイムに報告した。その時にしか感じられない思いを忘れずに記しておきたかったからだ。

札幌ではパレード前日の交流会にも参加し、実行委員の方々の地道な活動ぶりや全国から集まる一人一人の思いを知った。なんと札幌パレードは10周年。交流会を取り仕切っていた実行委員の人は草創期のパレードに参加したことで札幌を好きになり、そのまま住みついて活動し続けているという。驚いたが、翌日パレードに参加してみたら、彼のような道を選択する人がいることが、充分に納得できた。

青空の下。ゲイとしてはじめて歩いた札幌の街は、行き交う人々の視線がとても和やかで温かかった。どうやらレインボーマーチは毎年恒例の風物詩として定着しているらしく、「また今年もこの季節なんだねぇ」と歩道で話している人がいたのには驚いた。警備に当たる警察の方々も協力的で、隊列をスムーズに進行させるために「パレード優先で」信号を手動で操作していたりする。東京ではフロートに人が乗ることさえ警察から厳しく規制されていたというのに。そうした光景の一つ一つから、札幌で10年という時間をかけて蓄積してきたコミュニティーとしての経験の厚みを感じたし、地元社会との混交が着実に進んでいることが肌で感じられた。もともと北海道という所は「自由で清新なものを尊ぶ空気」があるようだ。同じ日本でも土地柄によってこんなに違うものなのか。そんな強烈なカルチャーショックを与えてくれた。

パレードの直後に札幌大通り公園で行われたプライド集会では、参加人数が史上最高の1116人だったことが発表されて盛り上がった。そして、毎年恒例だという札幌市長の上田文雄さんの挨拶があった。自治体の首長がLGBTに向けて直接、顔を付き合わせてあたたかいメッセージを送ってくれるなんて、それだけでも日本においては画期的なことなのだ。そしてこの日、僕が最も印象深く感じたのは、あるお母さんがステージから呼びかけたメッセージだった。当日の朝からおにぎりを販売していたというLGBTの子どもを持つ母親の会のお母さんは、僕らに向かってこう呼びかけた。

「影でコソコソしないで親にもカミングアウトして!どうせ一生そうやって生きていくっていう根性のある人は、親にカミングアウトして、自分の信じた道を行くという自信を持って、やってほしいと思います。」

いまだ親に本当の自分を曝け出せていない僕。そのお母さんのひょうきんなキャラクターに笑いながらも、胸がチクリと痛くなった。そして、ジーンと込み上げてくるものがあった。

そして10月9日。今度は関西レインボーパレードの下見に参加するため大阪へ向かった。しかも新幹線の日帰りで。そこまでして行きたかった最大の理由は、僕をこうした行動に誘ってくれた最大の牽引者・尾辻かな子さんと知り合いたかったからだ。集合地では彼女が、小さなレインボーフラッグを片手にフランクな様子で立っていた。会うなり笑顔で「いらっしゃ~い」と言いながら、綱引きで手繰り寄せるジェスチャーをしてくれた。そう、僕は彼女に手繰り寄せられたからここにいるのだ。だからこれはとても象徴的な場面であり、いまでも忘れられない。

日本を代表する大都市でありながらも、これまで大規模なパレードが一度も行われなかった大阪で、どれだけのことが出来るのかは未知数だった。実行委員に集まったメンバーも活動経験の無い初心者がほとんどを占めている。しかし下見は和やかな雰囲気で進み、呑気で楽観的な爽やかさに満ちていた。そこに可能性が溢れている気がした。僕はそのまま実行委員の一員として「公式記録」のスタッフになり、週末毎に大阪に通って実行委員会に参加し、パレードの様子をビデオ撮影する立場になった。

いったいどれだけの人たちが集まるのか。期待と不安の入り混じる気持ちで10月22日の朝を迎えた。札幌や東京のように派手なフロートが用意できているわけでもない。関連イベントも派手なものは用意していない。実行委員会としては参加者に「パレードという場を用意する」ことで精一杯なのだ。集合地、大阪市役所脇の中之島公園には朝から大勢のボランティアスタッフが集合した。皆で楽しみながら風船を膨らましたり、会場設営に取り組む中で、次第に不安は氷解した。時間が迫るにつれ、続々と人が集まってきたのだ。まさかこんなに集まるとは・・・と焦ってしまうほどに。

オープニング・セレモニーの始まる時刻には、公園はすっかり人で溢れていた。もともと人数も経験も少ない実行委員たちは、嬉しさを実感する余裕もなく、とにかくイベントを時間通りに事故なく進行することに集中した。隊列の歩き出した御堂筋は、大阪では頻繁に様々なパレードが行われる道であり、この日だけでも5つのパレードが行われるという。交通整理をする警察の方々は、手馴れた様子で我々を誘導した。

歩き出してふと歩道に目をやると、そこにはもう一つのパレードが出来ていた。地元ということで知人に目撃されることを恐れ、パレード自体には参加出来ないけれども沿道から見守ることだったらしてみたい。そう思った人たちが一緒に歩いているのだ。そして行く先々で、こっそりとパレードの様子を見守って沿道から声をかけている同性カップルやLGBT当事者たちに出会った。そんな沿道の人たちの声援を受けながらパレードを晴れ晴れとした面持ちで歩く人々の中には、LGBTだけではなく車椅子の方やLGBTの家族や友人たちなど、パレードの趣旨に賛同する様々な人々が参加していた。それは本当にあたたかい光景だった。

ゴール地点の元町中公園は、実行委員が互いに連絡を取り合うことが困難になるほど人が密集した。クロージング・セレモニーを行うステージは当初の予定では、平地である砂場に設ける予定だったのだが、そこでは参加者全員がステージを見ることができなくなってしまうため、急遽滑り台の上に変更された。僕は滑り台に乗って参加者達をビデオ撮影したのだが、上から見た光景は圧巻だった。隊列として行進した人数は約900人。歩道を一緒に歩いた人たちを含めると1000人は軽く越えていただろう。それだけの人数が一堂に会し、声を揃えてカウントダウンをして風船を飛ばす。その光景は想像していた以上に感動的であり、当日までに感じた様々な不安がすべて雲散霧消した瞬間だった。僕はこの時に感じた思いを、一生忘れないだろうと思う。

どうやら今回のパレードの参加者の多くは、東京や札幌でも歩いたことのある人が多かったようだ。前日にMASH大阪主催のHIV啓発イベント「PLuS+」が扇町公園で開催され、全国からゲイの活動家が集まっていたという好条件も重なった。衣裳やプラカードなどを手馴れた様子で用意している人たちが多かったし、沿道へのアピールの仕方も「経験」を感じさせる人が多かった。むしろ地元のLGBT当事者達は沿道から見守っているケースが多かったのではなかろうか。今回のパレードの成功は、そんな「様子を見に来た」地元大阪の人たちに、大いなる勇気を与えたことだろう。LGBTコミュニティーの経験の蓄積が、新たな土地に新たな「力」を与えて行く。そんな連帯感を感じることも出来た。

しかし、やはり新たな土地で新たなパレードを立ち上げる際には様々な障壁や問題点とも直面するものだということも知った。その土地にはその土地独自のコミュニティーがあり、継承されて来た暗黙のルールがある。そういった暗黙のルールによって、コミュニケーションが円滑になるなどの面があることは確かである。しかし同時に、強制力を持ちすぎた場合には旧弊な体質となり、当事者がそれに絡め取られたり、仲間内で足を引っ張り合って潰し合うようなことが、LGBT当事者間で起こったりすることもある。しかし僕らの直面している問題は他でもなく人権問題だということを忘れてはならない。差別や制度的な不公平を許容している現状は、社会の問題であるのと同時に当事者達の問題でもある。そろそろ仲間内の問題で足を止めるような歴史を超え、一歩先に進むべきときではないだろうか。

僕の中で大きな割合を占めるようになった「ゲイとしてのakaboshi」という自己。ノンケとして社会で振る舞っている実名の僕と、akaboshiが溶け合い融合することはあるのだろうか。今の僕のようにダブルネームを使い分けているLGBT当事者はたくさんいる。でも、そうでなければ不安で生きて行かれない世の中というのは、やはりおかしいと思う。僕は今後、本気でそうした世の中を変えて行きたい。躊躇なく、そうした活動に本格的に取り組んで行きたいと思っている。

堅物だった自己を崩壊させたのは「行動」による出会いだった。動くことで拓けてきた広大な景色の面白さと複雑さ。僕はもう二度と逃げたくない。自分からも、社会からも。

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