人権問題としての新木場事件

東京メトロポリタンゲイフォーラム共同代表:赤杉康伸・石坂わたる【CGS NewsLetter 007掲載】

 2006年7月8日夜、高校3年の男子生徒ら少年4人が、東京都江東区新木場の夢の島公園で男性同性愛者(ゲイ)に暴行を加えて全治40日の怪我を負わせ、現金を奪ったとして、強盗傷害容疑で警視庁城東署に逮捕されました。また、4人組は男性を襲った直後、400メートルほど離れた同運動場内で別の男性も襲い、2週間の怪我を負わせました。4人は初めに襲われた男性の110番通報で駆け付けたパトカーのサイレンを聞いて、2人目の男性からは現金を奪わず逃走しましたが、間もなく同運動場内で捜査員に取り押さえられました。
 この夢の島公園は、ゲイ・バイセクシュアル(両性愛)男性が出会いを求める「ハッテン場」と呼ばれる場所のひとつです。異性間カップルにとっては社会の至る所に準備されている出会いの場ですが、可視化が進んでいない同性間カップルの場合、非常に少ないのが現状です。そのため、ゲイ・バイセクシュアル男性当事者は口コミやゲイ雑誌、最近ではインターネットなどの媒体により自分たちが出会える場所を形成してきました。それがハッテン場です。夢の島公園は東京都内に存在する野外ハッテン場では比較的規模が大きく、今回の事件における1人目の被害者のように全裸になる人やセックスをする人もいます。

 この夢の島公園では、2000年2月11日早朝にゲイと思われる男性が撲殺体として発見され、所持金が奪われる事件が起こりました。この際には、中学3年、高校1年の少年(当時)を含む犯人グループが強盗殺人容疑で逮捕されました。この事件の後、特定非営利活動法人「動くゲイとレズビアンの会(NPO法人アカー)」は、こうしたゲイ・バイセクシュアル男性へのバッシングを再発させないため、啓発活動などを進めていました。しかし、このような努力にも関わらず、残念ながら昨年夏に事件は再び発生してしまいました。

 日本において性的少数者の人権を論じる際に、一般的によく耳にする言説として「世界各国で性的少数者に対する宗教的・政治的な迫害が存在するのに対して、日本ではそのような明確な人権侵害は存在しない」というものがあります。しかし、二回に渡る事件はこうした言説が必ずしも事実ではないということを明らかにしています。
 日本では長らく、「同性愛者・両性愛者であること=後ろめたい秘密」という意識が、当事者・非当事者双方に対してプリンティングされ続けてきました。その結果、今回のような事件が発生しても被害者は警察に届けることもせず、加害者も「同性愛者・両性愛者は抵抗したり、訴えたりできない」と捉え続けてきたのです。この構造は異性愛を中心視する日本社会に根ざすものであり、そこから「同性愛者や両性愛者は排除されても当然」であるという価値観も発生すると思われます。
 2000年、2006年の事件とも、犯人グループの少年たちは警察に対して「同性愛者なら警察に届けないと思った」と供述しています。警察によると「地元の不良少年の間では『同性愛者を狙えば簡単』というのは共通認識のようだ」とのことです。
 また、ゲイ・バイセクシュアル男性の間では、夢の島公園に限らず、野外ハッテン場での嫌悪的暴行は表沙汰にならないものも含めると東京都内だけでも多数発生しているという話が聞かれます。このような背景から、今回の事件とこれらの暴行をゲイ・バイセクシュアル男性に対する人権侵害の問題として捉えて対応していくべきだと考えます。

 事件の大もとが「異性愛中心主義」という日本社会の特質そのものに根ざす以上、今回の事件報道にもその性格は色濃く反映されています。事件発生から約3週間後の7月28日、時事通信社が概要を第一報として取り上げました。その後、スポーツ新聞やテレビ局のワイドショー番組なども後追いでこの事件を取り上げています。しかし、その内容には「無抵抗の男性同性愛者が全治40日間の打撲を負わされた」という事件の被害そのものの報道よりも、ハッテン場という場所柄に対する薄笑いを含んだ論評、そして奇異なものを見るような視線が目立ちました。
 マスメディアによる上記のような報道は、「異性愛者ではない人の人権も尊重されるべきであり、セクシュアリティを理由とする暴行・殺人行為はいかなる場合であっても人権問題である」という事件の本質から、情報の受け手の意識を遠ざけるものでした。その上、センセーショナルな報道態様は、同性愛者・両性愛者であることがあたかも「異常」であるかのような印象を与えました。そのため、こうした報道は、犯人の高校生の間で共有されていた「同性愛者や両性愛者は、排除されても当然」という価値観を暗黙のうちに容認する働きを果たしていると考えられます。
 さらに、事件の被害者になり得るゲイ・バイセクシュアル男性が、こうしたマスメディアによって流布された異性愛社会的価値観を内面化してしまった結果、自己肯定感が低下し、当事者としての声を上げられないという状況も発生しています。

 また、「同性愛者や両性愛者は排除されても当然」という価値観は、「同性愛者や両性愛者を含む、性的少数者や社会的弱者の人権」に対する教育の不在に負うところも大きいとも言えるかもしれません。
 現在、東京都の総務局人権部が作成している『みんなの人権』というパンフレットの中では「…同性愛・両性愛の人もいます。人が誰を愛するのか、決まった答えはありません。世界には、同性同士の結婚を合法としている国もあります。人間の性のあり方について、理解を深めることも必要なのではないでしょうか」というように同性愛者・両性愛者の人権について触れられています。しかし、このパンフレットは配布用として公共機関に設置されてはいるものの、学校での配布などはされていないそうです。公共施設を利用する機会があり、よほど意識があって自分から冊子を手に取って読む人でないと、この中身を目にすることはないかと思います。
 それならば、学校では『みんなの人権』とはまた別の人権啓発教育が必要になると思われます。ですが、「児童・生徒向けにはどのようなものを配布しているのですか」と東京都の教育庁に問い合わせると、「児童・生徒に対して人権問題に関する冊子の配布などは行なっていない」との返事が返って来ました。もちろん、冊子以外に同性愛者・両性愛者の人権について教科書で既に取り上げられているというわけでもありません。
 また、教員向けの『人権教育プログラム(学校教育プログラム)』を見ても、分厚い冊子の中で同性愛者に関しては「近年、同性愛者をめぐって、様々な問題が提起されています」という一文があるのみです。「さまざまな問題」では具体的事柄や必要な対応は何も伝わってきません。教育の場は、児童・生徒がセクシュアルマイノリティの人権問題を知るにあたって重要な手がかりの一つです。教育というチャンネルが児童・生徒に対して有効に働かなければ、セクシュアルマイノリティに対する差別・偏見は世代を超えて再生産され続けてしまうでしょう。

 2006年事件の報道後、インターネット上のブログ、掲示板、そしてSNSなどでゲイ当事者・非当事者の枠を超えたさまざまな意見の表明が見られました。しかし、面と向かって言葉を交わすわけではないインターネット上では、意見のやり取りがかみ合わなかったり、やや根拠の乏しい書き込みなどが見られたりしました。そのため、実際に顔をつき合わせて話のできる場を設ける必要性が強く感じられました。
 こうして2006年8月9日の夜、新宿二丁目のコミュニティセンターakta(厚生労働省と(財)エイズ予防財団がNGOの運営協力の下に設置した、HIV/AIDSをはじめとする性感染症の情報スペース)にて、事件についての集会「新木場事件を考える」を開催することになりました。この集会は、筆者2人が所属する団体であるAGP(同性愛者医療・福祉・教育・カウンセリング専門家会議)が毎月aktaにて開催しているセミナーの番外編として催されました。筆者2人が企画してから当日まではわずか1週間の期間しかなく、しかも平日夜の開催であるにもかかわらず、70名を超えるさまざまな立場の人が参加をしてくれました。
 集会は、ゲイ男性である5名のスピーカー(ライター、会社員、野外ハッテン場に関するサイトの運営者など)と筆者2人(司会と情報提供者)によるディスカッション、そしてディスカッションを受けた質疑応答という形式を取りました。
 スピーカーからは以下のように、さまざまな意見が出されました。「『今回の暴行をした犯罪者と全裸でいた被害者は同罪だ』という声もあるし、『(被害者は)自業自得だ』という声もある。『自業自得だ』と言わないまでも、ちょっと揺れて『自己責任だ』という声もある。自己責任あたりは微妙なところだけれど、自業自得はちょっと言い過ぎではないかと思う。」「(2000年の事件でも)『ハッテン場に行くやつが悪い』とか、『ハッテン場のホームページを作っているやつが悪い』といった点がインターネット上で責められてた。『じゃあ自分達はどうしていけばいいんだ』ということが、全然論点に上がってこない。」「もし、今回の被害者の方がもうちょっと『危険だ』という意識や、野外のハッテン場へ行く際のリスク管理みたいな意識を持っていたとしたら、今回の被害が防げたかもしれないと考えると、なんだか被害者がかわいそうだなと思う。」「『夜の郊外のハッテン公園で全裸徘徊をすること』と、『マイノリティの後ろめたさに付け込んでわざわざそういうエリアに乗り込んで、4人で丸腰の相手に重傷を負わせるまでにボコボコにして金奪うこと』を、同じ程、悪いことにしてほしくない。」
 また、フロアからは、「もっとゲイの立場に立って、自分達の問題だと論じたらどうか」との声や、「ゲイがゲイを忌避するのは何故か」、「ゲイメディアはどのように、野外系ハッテン場を扱ってきたのか」などの意見や質問も出ました。
 集会では、同じゲイ男性であるスピーカーの間でも意見に幅があることが印象に残りました。そして、同様の事件の被害者になる可能性があるゲイ・バイセクシュアル男性自身であっても、「この事件はゲイ・バイセクシュアル男性に対する人権侵害」だとストレートにはなかなか主張出来ない現実を実感しました。それは、今回のような集会の参加者にとっても、異性愛が自明視される社会の中で自らの「ゲイ・プライド」「バイセクシュアル・プライド」を確立することが非常に難しいということの証左であると思います。
 ただし、今回の集会で得られたのは悲観すべき結果だけではありません。自分たちのコミュニティ内にも多様な意見があるという点は当たり前の事実ですが、ともすれば忘れられがちです。そして、もつれた意見の中から論点を丁寧にほどいて解決策を見出すには、感情や煽りが先立ちがちなインターネット上では難しい場合もあるため、顔を合わせての議論の場が有益であることを今回の集会は教えてくれました。

 「ゲイ・バイセクシュアル男性を含むセクシュアルマイノリティに対する暴行は人権問題である」という事実は、もっと人権政策や教育等を担当する行政当局等に届けられる必要があると、上記集会を経験した筆者2人は強く感じました。そのため、筆者2人が有志の団体・個人に声を掛け、「新木場事件を繰り返さない」というプロジェクトを立ち上げました。
 そして2006年9月26日、プロジェクトを代表して筆者2人が「学校教育における同性愛者をはじめとするセクシュアルマイノリティの人権教育実施に関する要望書」(以下、「要望書」)を東京都の総務局人権部、そして今回は加害者が高校生であるということから東京都の教育委員会や教職員組合にも提出しました。
 要望書の内容としては、「セクシュアルマイノリティに関する、学校の教職員や東京都の一般職員への人権研修」や、「都民や学校に通う子どもへのセクシュアルマイノリティに対する人権啓発」、「セクシュアルマイノリティだけに限ったことではなく、理解できないものはリンチをしてもいいというような、私刑(裁判などを介さない、市民が行う制裁)の禁止についてもきちんと教育場面などで教えていってもらうこと」などを要望として掲げました。
 この要望書の提出に対して、教育委員会の対応は、「忙しいのでお話を聞くことはできませんが、受け取ることは可能です。」というものでした。
 総務局人権部は、30分間お話をする時間を取ってくださった上で、「今回の事件については知りませんでした。以前、東京レズビアン&ゲイパレード会場でのセクシュアルマイノリティの人権に関するシンポジウムを見に行ったことがあります。セクシュアルマイノリティの人権は、さまざまな人権問題のひとつだと考えていて、セクシュアルマイノリティに関することだけを常にピックアップしたりできるわけではありませんが、国レベルでもセクシュアルマイノリティの人権については取り上げる方向になっていますので、われわれも考えていきたい。」という反応でした。
 また、教職員組合(都高教)では、「既にこの事件について知っています。今すぐ何ができるというわけではありませんが、きちんと取り上げていくことを検討したい。」というお返事でした。

 東京都の教育を担当する教育委員会の反応が、所謂「木で鼻を括る」通り一遍なものであったことは、非常に残念です(もっとも都教育委員会では、今回の一件に関わらず、どのような要望書であっても、このような事務的な対応を取っているようです)。それに対して、都高教がこの事件について既に知っていた要因としては、都高教が実際の高校生に身近な立場だということが考えられます。
 総務局人権部では、担当者が時間を取ってくださった上で意見交換を行なうことができました。また、担当者の話にも出てきたように、東京レズビアン&ゲイパレードの出発直前イベントとして企画・開催された人権関連シンポジウム(年によって、都や都の関連団体が後援)が都の担当者ベースでも認識されているという事実は、今回の要望書提出にあたっての大きな収穫でした。今後、人権担当部局が「セクシュアルマイノリティの人権」について取り組みを行なおうとする際、当事者の声や具体的なアクションが担当者の力となる可能性を感じました。

 一方で、行政当局などからの反応とはまた別に、この要望書の提出については、なぜか「子ども相手に、ハッテン場を教えていいものか。」というような書き込みがインターネット上の掲示板、SNSなどでかなり流れました。しかし、要望書ではセクシュアルマイノリティの人権一般について触れてもらうように求めたのであって、ハッテン場を取り上げて指導してほしいなどとは書いていませんでした。ネット上の個人による情報のやり取りは、実体のない憶測・中傷などに流される危険性をはらんでいますが、今回の要望書提出に当たっても同様の事態が発生してしまったわけです。そうした事情もあり、今回のような事件について話し合う際には、人が顔を合わせることが大切であると筆者2人は強く感じました。

 今回の事件は、「目立つ場所であるハッテン場での強盗傷害」という新聞記事に載るような事件でしたが、学校内やあるいは社会に出た後でも「同性愛者・両性愛者である」ということや、実際にそうであるかどうかに関わらず、「オカマっぽい」などの理由で、イジメや蔑視・排除がなされるケースは多々あります。
 新聞に載るような大きな事件も、そして日常の見逃されがちな事件も、「マイノリティの人権に対する社会の認識不足」が根底にある点では同じであると考えられます。そして、そうした根っこが解消されない限り、同じような事件は形を変えて繰り返されるでしょう。
 このような「マイノリティの人権に対する社会の認識不足」を改善していくために、私たちは何ができるのでしょうか?答えは容易に見つかるものではありません。しかし、今回の取り組みを通じて、身近なコミュニティの中で顔をつき合わせて考えていくことが一つの手がかりになり得るのだと、筆者2人は感じました。また、要望書を提出する中で感じたのですが、市民としてのセクシュアルマイノリティが行政に対して声を届けることも重要です。そうした取り組みを続けることで、セクシュアルマイノリティの問題に限らず「誰もがみんな『人権の当事者』なのだ」という意識を社会全体で醸成することができるのではないかと思います。

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