「キリストの風」集会について

Rainbow candles used by Kiristo-no-Kaze「キリストの風」集会代表:平良愛香
【CGS Newsletter 008掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

 セクシュアルマイノリティ・クリスチャンのための集い、「キリストの風」集会が東京で始まったのは1995 年9月のことでした。たまたま集まったゲイの中にクリスチャンがいたことから、「自分のセクシュアリティを神に懺悔したり、変えてもらえるように祈るのではなく、神が与えてくれたものと信じて感謝できる場が欲しい」という話になったのです。やがて「教会で礼拝をしたい」という思いが高まり、第一回「キリストの風」集会が開催されたのです。

Former meeting space of  Kiristo-no-Kaze「キリストの風」集会には面白い特徴があります。

(1)正確には連続性を持っておらず、集会ごとに解散している。
(2)そのため、次回の集会が行われるかどうかは誰も分からない。
(3)有志企画の集会であるため、連絡先はもとより、名前すら知らない人のほうが多い。

 よくそんな不安定な状況で11年以上も続いたものだと驚いてしまいます。しかし、あえて「形を作ってしまわない」というスタンスで続けることで、様々な信仰や思想、信条を排除しないで来られたのではないかと思ってもいるのです。
「キリストの風」集会を通じて私は二つの事を学びました。一つ目は、キリスト教が長年いかに「性を枠にはめて管理しようとし、枠にはまらない性を抑圧してきたか」ということ。「キリストの風」は、「『神は私達を創造し、良しとし、愛しているのだ』と語るキリストの教えが、本当にセクシュアルマイノリティを排除したり抑圧したりするのだろうか」という問いを、キリスト教会全体に対して問いかける集会となっているのではないかと思うのです。
 二点目は、セクシュアリティというものが実に様々であるということ。男性同性愛者は性的少数者の中ではマジョリティであり、強者であるということにも気づかされてきました。
「キリストの風」集会には三つのお約束があります。その一つが「セクシュアリティは見た目で判断できる物ではない。お互い勝手にレッテルを貼らないように気をつける」というものです。被差別者がいつでも差別者になりうることを、「キリストの風」集会は気づかせてくれるのです。
「キリストの風」集会が始まってもうすぐ12年。時間の経過の中でその方向性が変わってきたように思います。当初「ただ心が安まれば」という意味合いが大きかった集会も、「この世界で一人一人が勇気と希望をもって生きられるように」という方向性をも持つようになってきた。
 もちろん約12年の間には様々な困難もありました。しかしその中で感じ続けたのは、「キリストが共にいるから、私たちは癒され、安らぎ、励まされ、力を受けている」「何よりもキリストが平和を与える、という約束に希望がある」ということでした。「キリストの風」集会が今後どのようになるかは全く分かりません。けれどこの「非連続」の会が必要とされている限り続くのかな、と思っています。一人一人が力を受けている、一人一人が希望を持つことができる、そのような会でありつづけられることを願っています。

(2007年3月の「キリストの風」集会のメッセージより)

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