ICU大学院:加藤悠二
【CGS Newsletter 008掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
2007年2月2日、講演会『キリスト教の「聖」性を考える−レズビアンの視点から見る「キリスト教批判」の可能性』がICUに於いて行われた。講演者の堀江有里牧師は、同性愛行為を行う者は日本基督教団の牧師となるのに相応しくない、という主旨の「伊藤発言」・「大隅文書」(1998年)に対して、教団内部から抗議を続けてきた人物である。
この教団内部の同性愛者差別に対する抗議の中心には、堀江氏のようなレズビアンの信徒だけではなく、教会内の性差別を批判してきた多くの異性愛者の女性たちがおり、ともに男性中心的異性愛主義に対抗する声を発したのだった。だがこの共闘的な抵抗運動を通して堀江氏は、同性愛者全般の問題を考えているはずが、気づかぬうちに「同性愛者=ゲイ」として問題が矮小化され、レズビアンがないがしろにされるという矛盾に出会うことになる。また、女性たちが連帯していくなかで、同じ女であるという連帯の名のもとに、レズビアンという立場が無化されていく矛盾にも出会うことになる。つまり、同性愛者たちと共闘しても、女たちと共闘しても、その闘いのなかで、レズビアンという立場は常に無化の危機に晒されているのだ。対立の構図は単純ではない。
この複雑に絡み合った矛盾に対して堀江氏は、フェミニスト神学の立場と「キリスト教批判」の立場を接合したアプローチからの批判を提唱する。フェミニスト神学は、聖書がそもそも過去の差別的状況で書かれた書物であり、ゆえに差別を再生産し得ることを批判し、「キリスト教批判」の立場は、日本基督教団が持つ保守的な体質を批判してきた代表的な立場であり、伝統的な教会を否定するものである。「キリスト教批判」の人びとは、独自のイエス像を立ち上げる「イエス教」でありキリスト教ではないとして、教団側からは揶揄されてきた。だがその揶揄、「キリスト教ではない」というラベリングの根拠は一体どこにあるのか。さらに言えば、自らを「聖」とし、同性愛者などを汚れた罪人としてきた教団側の判断の根拠は一体どこにあるのだろうか。
このように問う堀江氏は、上村静氏の著書『イエス−−人と神と』(2005)から、イエスを「自己を批判する者、自己を相対化する契機としてその者の前に立ち現れる」者である、とする考えを引用する。わたしたちは、教会が/わたしたちが考えるイエスは本当のイエスではないかも知れない、教会が/わたしたちの成していることはイエスの意に叶うものではないのかも知れないと、常に自己批判を繰り返さなければならないのではないか?イエスを契機に、過去に書かれた聖書の解釈を超え、<いま−ここ>で起きている事柄をどう捉え、その事柄がわたしたちに何を問うているのかを考え、常に自己を相対化していかなければならないのではないか?
この自己批判は勿論、共闘してきた異性愛女性たちにも、レズビアンの無化という問題をそのままにしてきた事実をつきつけることにつながる。しかし堀江氏は絶望することなく、「“わたしたち”がたたかってきた、あの道筋に、そのような可能性に、わたしは大きな“希望”を見いだしたい」(堀江2006, 205)と語る。この堀江氏の言葉のなかには、キリスト教をただ外側から非難するのではなく、共に生きていくためにこそ批判を続けていくことへの決意が見いだされる。
私も“わたしたち”のひとりとして、共に闘っていきたい。自己批判を繰り返し、共に過ごす大切な人びとへの批判を繰り返し、それでも絶望することなく、人と人との間に生きるために、“希望”を灯に、私は、私たちは、生きていきたい。
・堀江有里. (2006). 『「レズビアン」という生き方 キリスト教の異性愛主義を問う』. 東京: 新教出版社.
・上村静香. (2005). 『イエス−−人と神と』. 東京: 関東神学ゼミナール.