ICU大学院:丹羽尊子
【CGS Newsletter 008掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
2007年4月20日、「第51回国連婦人の地位委員会等について聞く会」が内閣府にて行なわれた。内容は、男女共同参画に関する最近の動きと、2007年2月26日~3月9日に行なわれた第51回国連婦人の地位委員会の報告であった。
今回の国連婦人の地位委員会の優先テーマは「女児に対するあらゆる形態の差別と暴力の撤廃」。女児が「児童」や「青年」というカテゴリーで一括りにされ、不可視であるが故に十分な対策がとられてこなかった現状が改めて認識され、女児固有のニーズの分析、関連統計の必要性とその整備等についての議論が深められた。確かに発展途上国では、女児は男児と比べて幼い頃から家事の担い手として期待されているため、教育へのアクセスが確保されないことが多い。また今回の決議にもあったように、早期に、かつ強制的に結婚させられるなど、性的搾取の対象ともなりやすい。しかし、女児に対する差別と暴力は、所謂発展途上国だけの問題だろうか。
例えば日本には義務教育の制度があり、児童労働の問題もないが、家庭において男児には「お手伝いはいいから勉強しなさい」、女児には「お手伝いが済んでから勉強しなさい」というような二重規範が適用されがちだ。うちは男の子だから勉強の心配もしなくちゃならないけど、女の子はそういう心配がなくて羨ましい、という趣旨の発言を見聞きすることもある。未だに男児は教育を通して得られるであろう将来の稼ぎが期待され、女児はそれが期待できないために、今現在の働き手であることを求められているのではないだろうか。
この期待の度合いの差は、表れに違いはあれど、発展途上国の女児差別を支えるものと同じであろう。そしてこの差が取り沙汰されない日本もまた、女児の不可視性の問題を抱えているのだ。児童労働に関するILOの研究成果によれば、子供の教育への投資は、将来6倍の経済的価値となるという(5月25日付読売新聞)。つまり、子供に教育を受けさせずに働かせることで短期的には得に見えても、将来的には大損をしていることになる。これは児童労働一般についての統計であり、かつ女児に特化したものではない。とはいえ、日本において女児が相対的に将来をあまり期待されていないことが何らかの経済的損失につながっていることは想像に難くない。さらにそれは、女性が経済の中で再び期待もされず報われもしない状態に陥らされるということを意味している。
当日、日本政府の女児への教育に対する姿勢と現状に関する質問が出たが、パネリストからは明確な答えは得られず、女性の地位委員会報告者より「私見だが」との断りつきで、現在の日本では「児童」という枠のみが存在し、「女児」という枠組み自体が存在していないのでは、という回答があった。だが現実に女児は男児とは違う期待、弱い期待の下で今日も生きている。それはやがて自己評価を低め、この社会に権利と責任を有する一個人として生きる気力を削ぐだろう。
国連婦人の地位委員会の次期の優先テーマは、「ジェンダー平等と女性のエンパワーメントのための資金調達」だという。これは女児の問題から見ても非常に重要なテーマであろう。女児は早くから力を削がれ、ゆえに先々は経済力が弱く、それによって再び力を奪われている。この悪循環を絶ち、女性をエンパワーするためには確かに資金が必要だ。現実経済の様々な局面と対峙するために、経済専門家とも渡り合えるだけの知識をつけてこの会議に臨めるどうか、など様々な困難が予想されるが、チャレンジングな課題であり、次回に注目したいところである。