性同一性障害医療ミス裁判にあたって

立命館大学院:ヨシノユギ
【CGS Newsletter 008掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

2007年3月末、京都では、余寒はあれど光の量は増していた。GID(性同一性障害)治療に伴う乳房切除手術の失敗を理由として、私は、大阪医科大学を提訴した。本稿では、GID医療の前に横たわる課題と、今回の裁判にまつわる思いを述べたい。なおここでの見解をもって、全てのGID当事者の思いを代表・代弁するつもりはないことを了とされたい。

近年、様々な場でGIDが話題となることも多い。そこで語られるのは、当事者の持つ苦悩や、拭い難い身体への違和である。だが、当事者を「(生まれ持った身体とは)逆の性」として扱いさえすれば、その悩みは解消するのであろうか。多くの当事者にとってハードルとなるのは、身体への違和感のみならず、女/男というカテゴリの強固さであろう。果たして性別二元論は自明であろうか。GIDは、そこに「同化」「埋没」し得るものなのか。
手術までは、初診から3年待った。その間に私の中で醸成されたのは、次のような思いだった。————「仕上がりが汚くても胸さえなくなれば有り難い」とは考えない。かと言ってそれは、寸分違わぬ「男性の身体」を望むものでもない。医療の限界は承知している。重要なのは、あくまで私という個人が己の身体を受容できること、そして術後の生の質を向上できるかどうかだ————と。術前、執刀医に対しても、GID当事者というカテゴリや統一的なイメージに対して一律の医療を提供するのではなく、それぞれのニーズに向き合ってほしいということを、言葉を尽くして伝えた。 
2時間のはずの手術には4時間半が費やされた。執拗なほどリスクを確認する私に「簡単な手術だから」と返したことが嘘のように、縫合部は膿み、やがて縫合糸がほつれ始めた。治癒の兆しを見せぬまま遂に患部は壊死し、私は非常な痛みに襲われた。更に追い打ちをかけたのは、術前に伝えた思いが、病院側に全く受け止められていなかったという事実である。壊死診断の直後、ある医師は「皮膚移植をすればよいから、壊死しても深刻になる必要はない」と言った。この言葉の裏に潜むのは、「最終的に術後の身体が“逆の性”に近似してさえいれば、その間に何があってもGID当事者は満足するはず」という考えである。それが性別二元論に基づいた発想であろうことは言うまでもない。「逆の性」という着地点に近づけば、中身や質はどうあれ、その医療は肯定されるのか。私は、己の身体が二元化の圧力にさらされていることを強く感じた。医師が持つGIDのイメージによって、当事者の持つ多様なニーズが縮減されていく事実は重大である。
現在の日本では「正規医療」に携わる病院・医師の数は限られているため、医療への不満を訴える当事者と医療を待つ当事者の間に、擬似的な対立状況が生まれやすい。現に、「この訴訟のせいで病院側が萎縮し、GID医療が停滞する」という声も聞こえる。だが、壊死の原因を「不明」の一点張りで通し、当事者ニーズを都合よく回収する病院が綱渡りを続けることに、真の展望があるのだろうか。技術はもちろんのこと、正規医療を標榜する病院として、その姿勢を問い直さねば、同じことが繰り返されるという危惧を持つ。
提出した質問状に対し、大阪医大は「一切過失なし」という回答を返してきた。隠されてしまった課題は、法廷で明らかにするほかない。それが総括されたとき、GID医療は再び前進を始めるだろう。医師たちの良心を心から期待している。諸氏には、この裁判の行方を見守って頂くよう願いたい。
訴訟支援サイトhttp://www.geocities.jp/suku_domo/

月別 アーカイブ