教育現場における「慰安婦」問題

ICU学部:井芹真紀子
【CGS Newsletter 008掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

安倍首相による度重なる「強制性否定発言」をうけて再び光があてられている「慰安婦」問題であるが、この問題を学校教育はどのように捉え、教えているのだろうか。この6月に母校の女子高で行った教育実習の中で「慰安婦」問題を取り上げたときの体験をもとに、そこに潜む問題を考えたい。

3週間の教育実習の総まとめとして、私は「沖縄戦・基地問題」をテーマとした授業を組み立て、その中で高校二年生に対して「慰安婦」問題を教える機会を持った。沖縄には多くの「慰安所」があったという事実から「慰安婦」問題に触れ、朝鮮をはじめとした様々な国の女性、また沖縄の女性を含む日本人女性が「慰安婦」として、軍によって性行為を強制されたということ、またその性行為は「慰安」などではなく、合法化された「強かん」であったことを説明した。こういった内容に生徒たちがどう反応するのか直前まで不安に思っていたが、「慰安婦」は兵士たちの欲求を解消させるための「共同便所」として扱われ、人権を否定されていたことをパネル写真を用いながら話したときには、生徒たちが授業にぐっと集中しているのを感じることができた。至らない点も多々あったが、生徒の「すごくいい授業だった」という声には、きちんと伝わっているという手ごたえも感じた。
しかし、私の達成感とは裏腹に、「慰安婦」問題の扱い方について他の社会科教員からは厳重な「注意」をうけてしまった。その注意とは、第一に「いわゆる沖縄戦のイメージ」と「慰安婦」問題をつなげるのは強引であり、沢山の人々(特に非戦闘員である沖縄県民)の命が犠牲になった「集団自決」などをもっと取り扱うべきであったというものだった。この指摘からは、「いわゆる沖縄戦」という「イメージ」が既にその教師の中で強固に構築されており、そこから「慰安婦」は排除され不可視化されているということが分かる。「慰安婦」制度が著しく人権を傷つけるものであったということは十分に理解されておらず、多くの人々が「命をおとしたこと」と比べて女性の「性の蹂躙」は矮小化されているのだ。
第二の批判は、「慰安婦」についての説明が荒っぽく、乱暴であり、「性は大切なものである」という大前提を伝えてもいなかった、というものだった。その教師によれば、「女子教育」の場において「過激」な言葉を使って授業にリアリティを持たせようとすることは、いまだ発達段階にある生徒に「偏った男性観」を植えつけるものであり、男性への逆差別になる可能性がある、とのことだ。また「慰安婦」問題に触れるのなら、「出会い系サイト」や「援助交際」、「売春」、「露出度の高い服を着ること」についての注意・警告も伴うべきだという。だがなぜ、女子に「慰安婦」問題を伝えることが「露出度の高い服を着る」女性への批判になり得るのか?
「女子教育」において「慰安婦」問題を扱うとき、そこに「性の大切さ」が紛れ込むことには注意深くあらねばならないだろう。それは大概の場合、「侵犯されがちな女性の性と人権を守ることの大切さ」を伝えるものとはならず、このように容易に「貞淑な女性であれ」というメッセージへと置き換えられてしまうのだ。そしてそこから外れるような語りは「過激」で「男性差別的」なものであるとして激しく非難される。
これらのような評価を受ける中で、私は今日の教育現場における「慰安婦」問題への認識とその扱われ方に疑問と憤りを感じずにはいられなかった。「慰安婦」問題についての認識は政治レベルのみならず、教育現場においても、今まさに危機的な状況に陥っているのではないだろうか。

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