ICU学部:長尾有起
【CGS Newsletter009掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
大学に入ってからの私しか知らない人はかなり驚くのだが、私は高校まではセクシュアリティはもとより、ジェンダーに関して全くといっていいほど興味がなかった。それどころか、「女の子なんだからお料理やお裁縫くらいできなきゃ」ぐらいは思っていたし、口に出してもいた。私は「皆に好かれるいい子でいなければ」というある種の強迫観念にとらわれていたように思う。今思えば「いい子の私」になるよう演じていたのだが、当時はそれが演技だという認識はなかった。そこに窮屈さを感じていたのは確かであるのに、その窮屈さを感じていること自体を意識しないように努めていた。
そんな私がジェンダーと出会ったのは、大学1年生のときにたまたま履修した一般教養の授業でのことだ。私はそこでの衝撃を忘れることができない。自分が意識下に押し込めてきた「もやもや」がすでにこの世に学問として存在していること、それを知って私の人生は大げさにではなく、変わった。あの窮屈さは、私が私自身を「型」に当てはめようとしていたからであり、その型は社会からの強い要請であることに気づくことができた。ジェンダーやセクシュアリティを勉強することを通して、自分がものごとに対してどのように考えるのか、なぜそのように考えるのか、それを自覚的に考え直すことが出来るようになった。その作業は時につらいが、それを超えてとても面白い。
私が学科間専攻であるジェンダー・セクシュアリティ研究プログラム(PGSS)で卒業をしようと決めたのは、そんなジェンダーをもっと勉強したいと思ったからだけでなく、私が本来大学で学ぼうと思っていた神学を、ジェンダー・セクシュアリティの観点から研究したかったからである。ICUは確かに学科間の壁が低く、学際的に学ぶことが可能だといわれているが、結局自分の専攻とは違う分野の授業は、どうしても「おまけ」のような位置づけになってしまう。私は神学とジェンダーを別々に、どちらかをおまけとして学びたかったのではなく、ジェンダーという視点から神学に取り組みたかった。だからこそ、PGSSという選択をしたのである。
PGSSではみながジェンダーという共通の視点を持ちつつも、文学や労働、スポーツにいたるまで、興味のある分野はさまざまな分野で研究をしている。通常のゼミや授業では、「宗教」や「政治」など、トピックが共通のもの同士が集まるが、PGSSは「視点」が共通のもの同士が集まる。これこそが「学際」であると思うし、そういった場だからこそ得られる知識や経験、議論がある。
さらに、ICU生として残念なことではあるが、ジェンダーやセクシュアリティとは関係のない(そんなものは有り得ないのだが、みながそう思っている)授業で、ジェンダーの視点から発言をすると、「うるさいフェミニスト」というスティグマが捺され(「フェミニストだ」と思われることに異存はないが……)、「空気の読めない」人間扱いされることが多い。そんな中で一人で闘い続けることは、私には出来ない。PGSSはそんな私をエンパワーしてくれる場でもあるのだ。
ジェンダーは偏った色眼鏡だ、と言われたことがある。確かにそうかもしれない。しかし眼鏡をはずすことなど可能だろうか。少なくとも、自分が眼鏡をかけていることに気づかなければ、はずすことすら考えないのではないか。ジェンダーに出会う前の私は度の合わない眼鏡をかけていて、しかもそのことに気づいてもいなかった。より遠くがよりクリアに見える眼鏡にかけ替えることが出来たのが、今の私である。