ICU学部:岩田まゆ
【CGS Newsletter010掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
4月28・29日、NHK「ハートをつなごう」にてゲイ/レズビアン特集が放送された。2夜通して感じたのは、全体として話がかなり単純化されていて、「同性愛者/異性愛者」という二項対立的ポジションはずっと変わらない、という雰囲気だった。「とりあえずバイセクシュアル」な私は、これには違和感を抱かざるを得ない。セクマイの知識が無い視聴者向けに、今回はゲイ・レズビアンに絞って分かり易く、ということかもしれないが、これでは逆にセクマイの中の多様性、或いは実際は誰しもに起こりうる「性のゆらぎ」の部分が見え辛くなって「わたしたちセクマイとはこういうもの」とか、或いはもっと他人事かつ短絡的に「へー、ゲイ・レズビアンって大変。今度から発言とかに気をつけなくっちゃ☆」というような「理解」や「受容」に結びつかないか不安なのだ。
確かに、日本ではセクマイが「いないこと」にされており、そういう意味でいわゆる「普通の男の子」が「僕、ゲイです」と出てきたことの意味は大きい。尾辻かな子さんのお母さんの「それまで私の中には異性愛者しかいなかった」、同性愛者は「テレビの世界の人だった」という言葉は、セクシュアリティに関わらず多くの人が感じていることだろう。統計上クラスに1、2人いる計算という話もあったが、彼が体一つで自分の経験を話すことの方にずっと説得力があった。
しかし、教育の場でどのように教師が当事者(を含む生徒たち)に接すればよいのかというくだりで、「異性を好きになる人もいれば、同性を好きになる人もいるんだよ」っていうことを伝えてあげて欲しい、といった言葉がでたりして、それでは結局「「ゲイ」や「レズビアン」といったような人たちが世の中にはいます(ので、そういう人たちも受け入れてあげましょう)」という含みを呼び起こしかねないように思える。これは、カミングアウトのときにしばしば見られる「差別しません=貴方がセクマイであることは一向に構いませんが、私の問題ではありません」という反応を、教室に予め振りまくことと同じではないか?それは「きもーい」という反応と同じくらい苦く、寂しい(しかも、結構多い)。
本当はそんなにはっきり分けることは出来ない。ゲイ・レズビアンだけが当事者じゃない。結局「性」について、みんなが当事者である。「みんながゆらぎうる」ということを、教育の場に限らず、小さい頃から教えて欲しいのだ。私が「バイセクシュアル」だからといって「大変だったでしょう」というのは本当に片腹痛い。あなただっていつ「当事者」になるか知れない。しかも、「当事者」になったからといって私とあなたでは共有できないことの方が多い。結局みんな一緒くたにはできないのに、尾辻さんのいうように「みんな違う」のに、その部分があまり出てこなかったのが残念だった。
コミュニティにしたって、一緒くたにできない人間たちが、でも僅かな共通項をよすがに集うのだから、うちにある差異・多様性に鈍感であっては組織の力が個人に対して思わぬ暴力となりかねない。「同じような人間がいるから、独りじゃない、いてもいい」で終わりではなくて、「みんな違って、その多様性を誰もが認めている」ときに初めて本当に安心できる社会になる。ゲイ/レズビアン特集は今後も続編の予定があるという。そういう人がいる、「普通」とこういう風に違う人がいる、と一つ一つ説明していくのではなく、自分の理解や経験を超えた「突飛さ」も、「そういうこともあるか、それもアリね」と言い合えるようなコミュニティ、ソサイエティ内の柔軟な雰囲気を醸すような番組を期待している。