報告:石島コウタ氏講演「日米間ジェンダー、文化・スポーツビジネス論」

ICU学部:大島寿子
【CGS Newsletter010掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

Poster for the lecture2008年4月23日、「ジェンダー研究へのアプローチ」の授業の一環として、スポーツ通訳者の石島コウタ氏による「日米間ジェンダー、文化・スポーツビジネス論」がCGSの主催で開催された。日本と米国で日本人メジャーリーガーを支援する仕事をなさってきた石島氏は、MtF(male to female)のトランスジェンダーである。講演では、女性・男性という性別の狭間、また米国と日本という文化の狭間を常に意識してきた氏のライフヒストリーを通して、性暴力サバイバー、結婚・こども、カミングアウト、日米スポーツマーケティング論といった幅広い分野が論じられた。

講演の中で氏は、「自分の存在が、彼らにとって脅威となったのでは無いか」という言葉で、性別移行を外見から明らかにした際に氏から離れて行った友人(主に男性)を分析した。性別を越境した氏自身が、友人らの性の規範をおびやかす存在になったのでは無いかという解釈と考えられる。講演に参加されていた氏のご友人からは、氏のこの解釈への反論として「どう接して良いか分からなくて」そのまま疎遠になってしまったのでは無いか、という意見が出された。私自身も、トランスジェンダーの友人達と接する際に「どう接して良いか分からない」感じをいつも覚えることに思い当たる。
しかし突き詰めて考えてみると、何をどう発言したら安全なのかという問いは、既に生きづらさを訴えている人々に対して、自分が生きづらさを作り出す側に回りたくないという意識と表裏一体なのではないだろうか。私も氏のご友人も、恐れていることは「自分が傷つくこと」であり、他者を傷つけることではないのではないか。そこには、「差別者」「抑圧者」というレッテルを貼られることに対する恐怖心・自己保身の姿勢がある。石島氏の「自分の存在が、彼らにとって脅威となったのでは無いか」という分析と、「どう接して良いか分からない」という戸惑いは、一見別のことを述べているようでいて実は同じこと、つまり性別移行がもたらす不安・脅威を異なる視点から述べたものであることに気が付く。結局のところ、確かに私にも氏のご友人にも、性別の越境は自らへの「脅威」として働いていたのである。
しかし、自分の発言が回りまわって私自身を傷つけることを恐れて沈黙を通したり、地雷区域に飛び込まないように議論が紛糾するトピックを避けるなどすることは、一時的には楽だけれど、発展性が無いことにも徐々に気が付いている。だが沈黙を超えてその先には何があるのだろうか。
「傷つく」という切り口からもう一度講演を振り返ると、石島さんの語りには「圧倒的な自己開示」と「抑圧的な他者によっても容易に振り回されない自己」の二つが相補的に共存しているように思われた。私自身は、自己開示度を高くすること、つまり相手と失敗の経験や感情を共有して脆弱な自己を晒すことには慎重である。相手が女性差別的であったり性の多様性に批判的な考えを持っていたら、不用意な自己開示は手酷い傷つきの現場となりかねないからだ。
しかし氏は、初対面の聴衆の前で、自殺念慮や女性へと性別移行した結果の肉体の変化などにまで踏み込んで話して下さった。それが可能なのはなぜか。私はこれを、脆弱な自己を晒したがゆえの傷付きを恐れていない証なのでは無いかと考える。「世間に何と言われようが、どう思われようが、これが自分なんです」という氏の言葉に、傷ついても生き続ける一人の人間の力、他者から攻撃されても核は変容しない強さを感じ、私はそこに希望を見た。

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