デルタG (www.delta-g.org)運営スタッフ:ミヤマアキラ
【CGS Newsletter010掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
「レズビアンとして」の声を求められると、わたしはとたんに不機嫌になる。いらいらして落ち着きをなくし、身体がこわばり、自己防衛的な気持ちになる。「レズビアンってなんですか?」と問われたら、「さあ、わかりません。あなたはどう思いますか?」と問い返すだろう。もしもあなたが、「女性を好きになる女性のことでしょう?」と答えたら、わたしは口をつぐむしかない。
「女性を好きになる女性=レズビアン」という公式は、非当事者(異性愛者)にとっては不可解な他者をカテゴライズする便利な常識だが、女性を好きになる女性当事者にとっては、逆に混乱と葛藤をもたらすことがある。女性が女性を好きになるという性愛体験が、すぐさまレズビアンの自認(自己形成)に結びつくわけではないからである。このことを、角度を変えてこう言ってみることも可能かもしれない。解剖学的に女性/男性の身体を持っていることが、すなわち「わたしは女性/男性である」という自認(自己形成)に結びつくわけではない、と。また、日本国籍を持っている(あるいは日本で生まれ育った)ことと、「日本人として」のアイデンティティを持つことは決してイコールではない、と。
だが、「~として」と自らを規定することに疑問も抵抗も感じないひとには、わたしのこのような煩悶の語りは無意味だろうと思う。
「レズビアンとして」の声を求められることに対する戸惑いや不愉快さは、いったいどこからくるのか。レズビアンにもいろんなひとがいるという、カテゴリのなかの多様なありようの一例を、誰の共感も呼ばないだろうという心細さと、誰かひとりくらいは響きあうひとがいるのではないかという一縷の望みとのあいだで揺れ動き、ひどく消耗しながら、わたしは言葉を紡ぐ。その言葉が「一レズビアンの意見」としてカテゴリに回収され、「ひとそれぞれ」という結論でまとめられ、わたしの足掻きが取りこぼされてしまうことに耐えられない。
それでも、わたしの吐き出したものがその場にぼとりと捨て置かれてしまう恐怖を覚悟に置き換えて、語りにくく聞き取られにくいことを、綴っていこうと思う。
レズビアンという切り口からわたしが思いいたることのすべてをここに書き尽くすことはできないが、手短に言うと、「レズビアン」と「わたし」とのあいだのズレである。まわりにいるどのレズビアンからも自分ははみ出していると感じること、レズビアンというカテゴリには収まりきらない部分を持て余していること、性的指向が同じというだけで連帯できるわけではないこと、わたしの求めるものがレズビアン全体にとって有用であるどころか逆に水を差すことにもなりかねないこと、レズビアン全体のためになされたことがわたし個人にとっては困惑と苦悩の種にもなりかねないこと、などなど。
「でも」と、あなたは言うだろうか。「でもそれは、レズビアンに限ったことではない。誰だってそうだ」と。だったらなんだというのだ。「大した問題ではない。みんな同じだから安心しろ」と言いたいのか。課題の外枠のみを一般化して「みんな同じ」というだけで安心したがるひととは、これ以上対話がつづかない。
自分でも、ひどく気難しく、粘着的で、攻撃的で、偏屈なことを述べていると思う。それがレズビアンのマイナスイメージになろうとも、知ったことではない。レズビアンの自認を持ったりカムアウトすることで自己肯定感や力を得た当事者がこれを読めば、逆に力を奪うことにもなりかねないと思う。けれどもわたしは、当事者にとって都合の悪い部分やあえて触れたがらない部分、掘り下げれば際限なく深く掘り進んでしまう課題などを隠したまま当事者たちをエンパワメントすることは、欺瞞でしかないと考えている。
このことは、わたしが「レズビアンでよかった」と思う点、レズビアンという名付けを自ら引き受けた経緯と密接な関係がある。
「あいつはゲイだ」「レズビアンに違いない」などと、他者のセクシュアリティを勝手にジャッジする不躾な声をよく耳にする。だが、なによりも許しがたいのは、レズビアンを名乗る者が、「あのひとは“ほんとうの”レズビアンではない」と他者をジャッジする声だ。すでに述べたように、「女性が女性を好きになる」ことと「レズビアンである」ことはイコールではない。女性との性愛体験を持ちながらレズビアンを自認しない女性もいれば、男性との性愛体験を持ちながら、あるいは、まだ誰とも性愛体験を持たなくても、レズビアンを自認する女性もいる。女性を好きになることがレズビアン自認のきっかけにはなっても、性愛体験そのものがレズビアン・アイデンティティの形成に直接的に影響するわけではない。
わたし自身、性自認は非決定、性愛体験的にはポリセクシュアル(性別で選ばない)、シングル指向のマルチガミーである。わたしを形成するアイデンティティはもちろんレズビアンだけではないし、誰だって自己を形成する要素のすべてを記述しきれない。それでも、レズビアン・アイデンティティはわたしを形成する他のアイデンティティーズと切り離せない重要なものであるし、レズビアンというアイデンティティ・カテゴリの開放を望むわたしはレズビアンと名乗っている。そして、レズビアンの名付けを引き受けることによって、自分の偏屈さ、頑迷さ、気難しさ、臆病さ、疑い深さを受容し、それらに愛着すら感じるようになった。
レズビアンの存在が無視され、いないことにされるのはもちろん腹立たしい。しかし、「レズビアンとして」の声を求められると、「わたしたちは、なかなか可視化されないレズビアンの声を取り上げる貴重な取り組みをしている」という政治的アピールに利用されるだけではないかと勘ぐりたくなる。わたしはそういう偏屈で疑り深いレズビアンである。偏屈さ、疑り深さとレズビアンであることは、わたしのなかでは密接にリンクしている。周囲の足並みに合わせることは、自分を譲り渡してしまうことになるからだ。善人ぶらないこと、寛容なふりをしないことを、わたしは「レズビアンであること」から学んだ。
なぜ、声をあげるひとたちと足並みを揃えなければならないのか。なぜ、わたしがあなたたちの土俵にあがらなければならないのか。あなたたちこそが、わたしと同じ土俵に乗ったらどうなのか(乗れるものなら乗ってみろ)。沈黙しているレズビアンの声を引き出そうとするのではなく、あなたたちのなかにある沈黙の部分を引き出したらどうなのか。なぜ、あなたたちの沈黙に代わって、レズビアンの沈黙を破らなければならないのか。
レズビアンであるわたしの沈黙は、自らの沈黙にじっと耳をかたむける誰かとのみ、かすかに共鳴する。そのときわたしははじめて、沈黙の重いふたに手をかけて、蜘蛛の糸のように頼りない思索の綱渡りを、その誰かと分有したいと思う。