変化するイギリス社会の中でレズビアンとして生きる

ザック
【CGS Newsletter010掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

30年以上前、学校で「レズビアン!」と言われて初めてその言葉を知った。当時は意味が分からなかったが、込められた敵意が私を黙らせた。それから数年、ホモフォビアによるいじめが続き、自分の性的指向に関する理解は胸のうちに秘め続けた。女の子が好きだという気持ちに行き場はなかった。ヘテロの友人は私に悲嘆と混乱をもたらし、彼らは彼らで冷めて立ち去った。私は学校の外でかなり年上の男女グループと仲良くなった。そこでは(後に何人かはゲイだと知った)ヘテロでいるべきといったプレッシャーはなく安心できたが、カミングアウトはしなかった。私達はたむろしては、ドラッグとクラブミュージックを楽しんでいた。

大学でついに何人かのレズビアンに出会った。女性ピースキャンプに参加するようになったが、そこはレズビアン天国だったのだ!この「グリーナムコモン」の時代、私はレズビアン活動家としての第一歩を踏み出した。しかし次第に極端なレズビアン分離主義に走った。その頃には完全にカミングアウトするようになっていたが、生活はアルコールと薬物のせいで慌しかった。当時は私も仲間もなるべく「ダイク」っぽく見えるように努めていたので身体的にも変化した。私たちは地域の注目を集めていたが、ほとんどの人が非友好的だった。しかしカミングアウトし続けるという決意は固かった。
学生時代はレズビアンやゲイのクラブに通った。街はゲイのメッカでも、男性に独占されていて女性が入れないクラブも多かった。レズビアンのクラブは裏道の地下にあって、中に入るためには小窓から覗いて開けてもらう必要があった。仲間と一緒にいるのは楽しかったが、居場所は社会の主流ではない同性愛サブカルチャーの世界だけで、ひどく寂しく感じることもしばしばだった。全国のレズビアンたちとも、ニュースレターやキャンプ、パーティーなどで交流を持った。ピースキャンプでは非暴力的な形で直接行動したり、女性への暴力に反対してデモ行進をしたり、とても刺激的な時代だった。当時の政権は右派で、LGBのライフスタイルを学校などで紹介するのを禁止した28条が成立した時期でもあった。法律が撤回された今も、その影響の余波を感じる。
色々あって何年かした後、私はロンドンに向かった。このときから、長年蓄積されたホモフォビアが私を痛めつけ始めることになる。打ちのめされ、外でも仕事でもレズビアンであることを隠すようになった。大きなゲイクラブは人間味がなく、親しい友達をつくるのは難しく思えた。自滅的な習慣が高まり、階級や人種の問題にも混乱して、アイデンティティの危機に陥った。気が付けば、愛してもいない女性と一緒にすごしていたりした。当時はホモフォビアがひどく、友人が何人も道で殴られたりした。
数年後、変わらず別の都市で家父長制社会と戦っていたが、アルコールや薬物からは手を引いていた。人生を変える重要な人々とのつながりが出来たからである。アイデンティティ・ポリティクスから脱却していた彼らは、インスピレーションを与える力をもち、また寛容だった。政治意識はより融和的で本当の私を反映したものとなった。私は、隠し続けてきた自分の障害やレズビアンであることの真の核心を理解し受容することで、自分自身の全てを愛し育むことができた。自信は自己評価の高まりと「女神」とのより深いつながりによって高まっていった。更にレズビアンであることに親和的な充実した仕事も見つけることができた。
イギリスの政治が急激に変わっていったとき、私は生涯のパートナーと出会った。同性愛嫌悪は未だに存在する。しかし、「平等」が政府の重要な政治課題になるなど、社会は変わりつつある。シヴィル・パートナーシップ法の導入は、人々のLGBに対する認知と受容に大いに影響を与えた。さらにその後、すべての物・サービスの提供に関して、性的指向に基づいた差別が法律で禁止されるなど、制度はさらに前進している。
私はとても長い道のりを経て、徐々にアンダーグラウンドから出て自分のありたい場所に、自分らしくあれるようになってきた。確かに今でも、パートナーと手をつなげばたちまち危険にさらされるという場所は多く、学校ではホモフォビアによるひどいいじめがある。信仰とLGBの権利との間にも議論がある。しかし30年前に比べれば社会は一変した。地元のケーキ屋ですら同性カップルの飾りをつけたウェディングケーキを売っているのである!
私の個人的な変化の歴史は、制度改正や社会の変化と並行である。それは何百万人という人が愛したい人を愛し、愛される権利があると信じ続け、根気強く運動してきた結果なのである。

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