ジェンダー問題の最前線としての“労働と育児”

ICU大学院修了
【CGS Newsletter011掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

07年末に出産し、訳あって8週間で職場復帰した。ここに、私なりの「労働と育児」に関する考察録を記したい。
育児しながら働くことは多くの場合子どもを保育園に預けることを意味する。しかし認可保育園への入園倍率は非常に高い。私の住む自治体では08年11月現在、無認可保育園からの入園待ちも含め待機児童は150人に上る。親の就労状況・収入・家庭の事情等が点数化され、そのポイント上位者から入園が決まるため、親(主に母親)達はいかに自分が忙しいかを、職場復帰を早めたり就労時間を延長したりして自治体にアピールするしかない。保育を確保するために母親が仕事量を増やす、保育サービスの矛盾がここから伺える。

私の子どもは幸運にも認可保育園に入園できた。これだけでも有難い話なので文句は言うまいと思いつつ、気になる点も少なくない。一番勘弁してほしいと思うのは保育士さんが私の子どもを必死に「男の子らしく」育ててくれようとするところだ。「男ならこんなことで泣くな!」「負けるな!」「もっと自己主張を!」。その情熱は有難いのだが、私としては冷や汗ものである。「男vs女」の二元論やジェンダー規範。「ああ、刷り込まれて行く…」という無力感を覚える瞬間だ。
また、保護者の呼び方にも違和感を覚えてしまう。「○○ちゃん(子どもの名前)+ママ」が一般的な母親の呼び名で、連絡網も子どもの名前で作られるので「こちらタクヤの母ですが、ももちゃんのお母さんはいらっしゃいますか?」という奇妙な会話にならざるを得ない。保育園において私は私個人の名前で呼ばれることはない。果たして私の名字を知っている人がいるのかどうかも怪しく、私はいつも子どもの付属物のような気持ちで動いている。そこでは、私に固有の主体の契機が奪われているようで、寂しさを感じる。
一方で、会社でも困難を日々痛感している。私の勤める会社は女性社員が多いと言われるが、子どもを持っている女性管理職は殆ど0に近い。子どもの急な病気や学校行事への対応が必要となり、パートナーとシェアできても子どもができる前と同じ労働力を女性が提供し続けることは難しいためだろう。例外的に子持ちの女性幹部社員が一人いるが、子どもは彼女の実家で暮らし、彼女は週2、3日をそちらで過ごす以外は会社近くのマンションから通勤しているという。日本の一般的な企業においては、女性が子どもを持ちながら働くには大別して二通りの道しかないのである。一つは「男並み」に働いて相当の評価をされる道、もう一つは「男並み」の評価は諦めて自分なりの生活を守る道だ。この二項対立は、先に出た保育園で刷り込まれる「男vs女」の二元論と無関係ではない。むしろ同じ構造の上に根ざしていると言えよう。
悪いことにこの構造は女性たちに内面化されている。生活を守ることを選んだ女性たちは「きちんと働けず申し訳ない」と、男並みの道を選んだ女性たちは「自分は悪い母親だ」と引け目を感じている。そして、互いに「あの人と私は生き方が違う」と分断しあうことで今の自分を再び肯定するのである。だがこんな対立にはそもそも意味がなく、子育てしながらの労働も正当に評価されるべきだし、どんな道を選んでも精神的な負い目を感じる必要はない筈だ。女性たちの対立は、どの道を選んでも負い目を感じる必要のない環境づくりに消極的なままの、日本の企業と社会の思う壷かもしれない。
「子どもは親の背中を見て育つ」と言う。保育園でも会社でも日々葛藤を抱えながら生きる私の背中から、子どもは何を感じるのだろうか。成長したらぜひ一度聞いてみたい。

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