報告:第一回クィア学会研究大会
【CGS Newsletter011掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
08年11月8・9日、広島修道大学で第一回クィア学会研究大会が開催され、無事終了した。シンポジストの一人が急遽出席できなくなるなどハプニングもあったが、多くの人が参加し、幅広い分野の研究発表が行われた。学会の成功を参加者数や知的活動、学会内で形成される人間のつながりだと考えると、今回の大会は間違いなく成功だったと言えるだろう。だがここでは、大会の成功を無邪気に喜びたい気持ちをひとまず抑え、大会の成功に見え隠れした問題を報告したい。
『<日本>は<クィア>か』と題されたシンポジウムでは、中村美亜(東京藝術大学)と田崎英明(立教大学)が興味深い議論を展開した。中村は、アメリカのトランスジェンダーのアイデンティティの問題化のされ方と日本のものとを比較し、両者の身体化と自己形成のあり方の違いを明確にし、日本の「クィア」の可能性を照射していった。田崎は、Jasbir K. Puarの“Terrorist Assemblages: Homonationalism in Queer Time”という著書に依拠しながら、9.11同時多発テロ以降のアメリカの「ホモ規範Homonormativity」に起因する「ホモナショナリズム」の問題を論じた。
『<日本>は<クィア>か』という問いに対する二人の発表は知的に洗練されたものだったが、それゆえに日本の「クィア・スタディーズ」の問題も浮き彫りになっていたように思える。日本にもクィアにも括弧が付けられた『<日本>は<クィア>か』という問いかけは、「クィア」の視点から「日本」を問い直せるものであったし、「日本」の視点から「クィア」を問い直せるものでもあった。しかし、二人は共にアメリカの規範に内在する暴力に注目し、それとは「異質」な<日本>を自明視してしまっていた。そして、アメリカを経由することによって<日本>の暴力を積極的に語ることを回避してしまう可能性を二人の議論は孕んでいたと思う。
これは、この二人の論者の特徴や欠点であるというより、主に英米で活発化したクィア・スタディーズの誘惑であり、クィア・スタディーズに関わる者が陥る危険性が高いものである。同時に、このような理論的傾向を西洋かぶれだと嘲笑したい誘惑が、日本で活動する者の中にあることも確かである。この両者が端的に示す<日本>を安全な位置に置いておきたいという欲望や<日本>の問題から離れるべきではないという日本への愛着はどのようなものか、まだそれほど多く論じられていないということを今大会は浮き彫りにした。
「クィア・スタディーズ」は、日本においてどのような政治性を持つことができるのか。異なる文脈に置かれる以上、それは必ずしも英米で機能したように規範を問い直すかたちで働くとも限らないし、好ましい結果をもたらすという保証もない。ゆえに、これから私たちの問題関心がどのような場で成り立っているか検討されていくべきだろう。
また、今大会の問題として、研究発表の中でアクティヴィズムに関する発表やその聴衆の少なさが目立っていた。この問題は、上述の<日本>をめぐる欲望と愛着の諸問題とおそらくは無関係ではないし、より重要で危機的な徴候である。もしかしたら告知の少なさや学会という制度の特殊性のせいであったかもしれないが、それでも現在の日本の「クィア・スタディーズ」の受容のひとつの傾向を示しているように思える。クィア学会の中でこれから自省すべき課題だろう。
第一回クィア学会研究大会の成功を喜びつつも、私たちの立っている地点のより慎重な再検討の必要性を感じさせられた大会であった。