報告:講演『〈名付け〉をめぐるポリティクス』

ICU学部(語学科3年)
【CGS Newsletter012掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

2009年5月20日、「ジェンダー研究へのアプローチ」の授業の公開講座として、ニュースコンテンツサイト「デルタG」主宰のミヤマアキラ氏と、大学教員の飯野由里子氏が『〈名付け〉をめぐるポリティクス』というテーマの下に講演を行った。「なぜ非異性愛者ばかりが「名乗り」を強要されるのか」、「「名乗り」としてのカミングアウトや、一方的な「名付け」や人格への還元など、「名付け」をめぐる政治性について」(公式ポスターより)。講演から考えたことをここに述べたい。

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「名付け・名乗り」という行為は、時として非常に有効な戦略となる。例えば各地で開かれるパレードという「名乗り」は、普段不可視化されている性的多様性、少数者、クィアを可視化させ、異性愛中心主義の社会を揺さぶり得るだろう。
しかし「名乗り」には、同時に沢山のリスクが伴っている。「名」には、社会の理不尽な偏見やステレオタイプが付随しており、それらに基づく非難や差別によって、「名乗った」本人が傷つく可能性があるのだ。また当然だが、どのような「名付け」も完璧に自分を表現することなどない。セクシュアリティに関しての「名乗り」も、その人の全体を完全に表現するものではない。しかし非異性愛者の場合は、普段不可視化されているからか、理不尽にも「名乗り」と同時にそのセクシュアリティがその人の全体として捉えられがちだ。
一方で異性愛者は、社会全体が異性愛を中心に構築されているためにそもそも「名乗る」必要がなく、存在の全体を「異性愛者」という一点のみにおいて捉えられるような酷い扱いをされることもない。仮に名乗っても「異性愛」は「普通」なので、その「名」がその人自身を危うくすることすらない。
以上が自分なりに読み解いた、対談で語られた主要な問題だ。就職活動を控え、私にはこの「名付け・名乗り」は、より差し迫った問題として感じられるようになってきている。
幸いICUでは「名乗り」を強要されたり偏見に曝されたことは少ない。しかし、少ないというだけでゼロではないことははっきり述べておきたい。「名乗り」を巡って現在進行形で思い悩む人々はICUにも必ず存在し、また自分自身も「名付け」による危険性をしばしば肌で感じながら暮らしている。
それにも拘らず社会人となって「社会」に出て行くことに格別の不安があるのは、このICUの中途半端な状況すら極めて特殊な例だと知っているからだ。高校では、「社会」に流布する非異性愛者のネガティブで滑稽なイメージが学校内でもそのままに垂れ流されていた。その異性愛主義の流れが強すぎて、「名乗り」を戦略的に行うことについて考える余裕すらなかったし、その強すぎる「流れ」に流され、まるで「異性愛」の川底に埋もれていく様な感覚を覚えることもあった。
要するに異性愛主義の急流の中での「名乗り」は、リスクが大きいだけでなく非常にパワーの要る行為なのだ。この困難だらけの仕事を前にすると、自分にそれができるのかという不安とともに、「名乗る」必要のない人々との間の圧倒的な権力差を感じてやり切れない。だがだからと言って、「名乗る」ことの戦略的有効性を諦めることもできない......。
私が望むのは「名乗った結果で権力差が生じない社会」だが、すぐにそのような社会を実現できるとは勿論思っていない。長い長い闘いになるだろう。急流に逆らい続けて常に「名乗って」いたら、自分自身が疲弊しきってしまう。「名乗る」ことの戦略的有効性と闘いの絶望的な長さ・困難さ......これらの間でバランスを取りながら、困難な現実をいかにほそくながく生きのび闘い続けるか。これが私の課題となるだろう。

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