名古屋市立大学教授:市川誠一
【CGS Newsletter013掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載、参考図表を加えています。】
●日本の男性同性間のHIV 感染動向
日本では未発症HIV 感染者(以下、HIV 感染者)およびAIDS 患者の発生を把握する厚生省(現厚生労働省)によるサーベイランスが84 年から始まり、「エイズ発生動向年報」が公表されている。85 年に初めて報告されたAIDS 患者6 件は、全例が男性同性間の性的接触経験者(Men who have Sexwith Men , 以下MSM)であった。
HIV 感染者/AIDS 患者共に、日本国籍の異性間感染例は00 年頃から横ばいの推移であるのに対し、MSM 間の感染は増加が続いており、02 年に比して08 年には各々2 倍以上に上昇している。厚労省のエイズ対策研究事業研究班の調査では、HIV 検査を受検したMSMの陽性者率は、およそ3 ~ 5% であるといわれている。なお、日本の一般集団におけるHIV 陽性率は明らかではないが、08年の献血のHIV 検査実施件数での陽性割合は10 万件当たり2.107 である。また、地域別では、東京都は96 年頃、大阪府を含む近畿地域は98 年頃、愛知県を含む東海地域は01 年頃から著しい増加に転じ、最近では他地域でもMSM 間の感染は増加の兆しにある。
また、具体的に日本の20 ~ 59 歳の成人男性に占めるMSM の割合を求め、MSM 人口を推定するために、東北、関東、東海、近畿、九州地域に居住する成人男性を対象とする調査がおこなわれている。3,700 名の対象者のうち、1,659 件(45%)の回答があり、同性に対して性的関心を覚える割合は3.7%、性交渉の相手が同性のみまたは両性と回答した割合は2.0%、双方を合わせ持つ割合は4.3% であった。この調査結果と国勢調査における成人男性人口から、MSM 人口は68 万人強と推定される。そこからさらに、平成20 年エイズ発生動向年報におけるMSMと非MSMのHIV感染者/AIDS患者の累計により、各々の人口10 万人対の有病率を推定した結果、非MSM と比べてMSM のHIV 有病率は96 倍、AIDS 有病率は33 倍であった。これらの調査から分かるように、日本のMSM におけるHIV 感染動向は、より一層の予防介入が必要とされる状態に
あることは明らかである。なお、HIV 感染者/AIDS 患者の報告数は人口規模に比例して東京で多いものの、MSM 人口当たりの流行状況は各地域で同程度であることも示唆されている。
厚労省のエイズ対策研究事業によるMSM 対象のHIV 感染対策研究では、男性同性愛者を中心としたNGO(ゲイNGO)による啓発普及活動が進められており、ゲイバー等の商業施設やメディアなどと構築したネットワークを通じ、コンドームや冊子等の啓発資材配布や啓発イベントなどが、コミュニティベースで展開されている。また厚労省は、03 年に男性同性愛者を対象としたエイズ対策推進事業を(財)エイズ予防財団に委託、東京・大阪に男性同性愛者が自由に利用できるコミュニティセンターを設置した。その後、06 年の名古屋、07 年の福岡に続き、10 年には仙台・那覇にも設置されている。これらのセンターは各地域のゲイNGO が運営を担い、効果的な啓発活動を継続する上での重要拠点となっている。
行動疫学調査・社会学的調査からゲイNGO 活動の効果を検証したところ、大阪地域のクラブイベントに参加したMSM 対象の調査では、過去1 年間のHIV 検査受検率およびコンドーム購入率の上昇が確認された。東京地域の調査でも同様の効果が見られているが、バー顧客調査では40 歳代後半以上の年齢層では受検行動が低いことが示されている。
また、06 年からは5 ヵ年計画で「エイズ予防のための戦略研究」が、首都圏・阪神圏のMSM を対象に、「検査件数を倍化し、AIDS 発生を25%減少させる」ことが主要目標として設定され実施されている。この目標を達成するためには、
1)MSM に訴求性のある啓発プログラムの開発・普及、
2)啓発普及による検査ニーズの増大に対応できる検査体制の整備(特に社会的偏見・差別を受ける可能性が高いMSM のセクシュアリティに配慮した検査/ 相談体制の整備)、
3)検査受検への不安軽減を図る相談体制・陽性が判明した受検者への支援の拡充
などがおこなわれている。
首都圏では、MSM におけるHIV 感染の現状を伝えつつ、HIV に関連した情報や社会のリソースへのアクセスを高めるための情報サイト「HIV マップ」が構築された。また、MSM当事者の協力のもと、保健所等のHIV 検査担当者向けにMSM対応に関する研修会を開催、MSM の受検促進への協力検査機関を確保し、「あんしんHIV 検査サーチ」として広報している。09 年からは、受検行動を促進し、AIDS 発症を予防するためのキャンペーン「できる!」を企画、商業施設やクラブイベント主催者、Web・ラジオ・雑誌などのメディア、ゲイサークルなどとのネットワークを介した啓発を進めている。
阪神圏では、STD クリニックでのMSM 対象の検査キャンペーンを実施し、Web、または商業施設を介した啓発広報、公園など公共空間でのイベントを通じて受検促進を図っている。なかでも、公共空間における受検促進啓発イベント「PLuS+」は、商業施設非利用者に対する介入プログラムとして企画され、来場者5-6000 人(うちMSM60%)を集めている。他に、陽性者支援のための電話相談体制「POSP 電話相談」を開設し、地域の相談に関わる専門職ネットワーク構築のためのケースカンファレンス、新規陽性者を支援するピア・グループミーティングプログラムを展開している。
日本国籍AIDS 患者の報告数は、ゲイNGO 活動の認知が高く受検行動が向上した25-49 歳の年齢層では、この3 年間の推移が横ばいもしくは減少傾向にある。さらに啓発対象地域や年齢層を拡大したゲイNGO の取組みが必要とされる一方で、学生や勤労者のボランティアスタッフへの依存、ゲイNGO 活動を支持する公的基盤の脆弱さ、これまでのMSM へのAIDS 対策は試行的な段階であることなど、多くの課題がある。コミュニティセンターを中心とした啓発活動を維持するための一層の施策展開が望まれると同時に、HIV 陽性者への支援に取り組むことも必要である。MSM はHIV 有病率/AIDS 有病率がMSM 以外の男性に比べて極めて高く、わが国のAIDS 対策の重点的対象層である。また、HIV/AIDS の年次発生率もMSM において上昇しており、MSM におけるHIV 感染の早期検査・早期治療に一層の努力をしなければならない。MSM を中心にHIV 感染者/AIDS 患者の増加が報告されている現状からみれば、日本のHIV 感染対策はまだ成功しているとは言えない。