報告:「キリスト教とセクシュアル・マイノリティ/セクシュアルマイノリティとコミュニティ」

大学生:清水かな
【CGS Newsletter013掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】

 2010 年2 月16 日、「信仰とセクシュアリティを考えるキリスト者の会」(ECQA)代表であり、日本基督教団牧師である堀江有里氏が、「キリスト教とセクシュアル・マイノリティ/ セクシュアル・マイノリティとコミュニティ」というテーマで講演を行った。講演では、ピア・カウンセリングを中心としたECQA の活動や日本のキリスト教におけるセクシュアル・マイノリティの状況についてお話しいただいた。

 私はこの講演会の前に、CGS で2009 年度冬学期に開催された堀江氏の著作『「レズビアン」という生き方? キリスト教の異性愛主義を問う』の読書会に参加していた。その中で考えていたことの一つは性的指向(sexual orientation)についてである。性的指向は生まれつき決まっているものでも、自らの意志で選ぶものでも、他人に決定されるものでもない。しか し、自分も含め、自分のジェンダーから見た異性に性的指向が向いていることが当然であると考える人は多い。自分は「女」だから、異性として「男」を性的指 向の対象とするのが「自然」(逆も同じ)だとされるが、その性的指向は本当に「自然」なものなのだろうか。本を読む中でそれを考え始めると、では一体どうやったら自分の「本当」の性的指向がわかるのか、という疑問にぶつかる。講演の中で堀江氏は、性的指向は揺らぐものであり、確定さ れたものではないと述べ、自ら選び取って引き受けるものだとおっしゃっていた。「本当」の、あるいは「自然」な性的指向などないのだろう。不確定なものに はとかく、名前を与え、定義・分類して単純化しがちだが、保留しておくこと、複雑なまま受け入れることが必要で、性的指向とはそのように流動的な自分の一 部ではないだろうか。

 もう一つ講演で大きなテーマとされたのはコミュニティについてである。堀江氏にとって、コミュニティとは、居場所の確保、語る/ 聴くの相互作用によってストーリーを構築する場、連帯、経験の共有、相互批判の可能性をもつ場であるという。しかし、このような可能性をもつ一方で、キリ スト教におけるセクシュアル・マイノリティがおかれている状況は、コミュニティの不可能性も生みだす、と堀江氏は言う。コミュニティ自体が、具体的な活動 ができず、反発や攻撃を受けること、さらには教会・キリスト教が根強く持つ、性別二元論や異性愛主義の風潮、それに基づく聖書解釈や教会内の権力構造など の問題もコミュニティの不可能性につながるという。この厳しい環境の中にあえてとどまり、細々と集まって闘うことにどのような意味があるのだろうか。堀江 氏は、絶望を出発点とし、その共有、そして外への波及という希望があると語る。堀江氏の言う「絶望」は、信仰するキリスト教からの拒絶という絶望、その絶 望も経験した当事者にしかわからず、当事者間での議論の枠にとどまるという絶望、そしてそれらの絶望に対するコミュニティの不可能性という深く重層的な 「絶望」だと想像する。しかし、孤独を感じながらも、やはり誰かに伝えたい、自らの信仰するキリスト教の中で議論したいという堀江氏の思いに深く共感し た。

 厳しい状況の中で生きていくためには、コミュニティはなぐさめの場所ではなく、当事者として他者と積極的に関わっていく場として必要であろう。自らのアイ デンティティが関わる以上、生きるためにその絶望と闘っていかなければならないという使命感に加え、他者とのつながりを希求することこそが逆境の中でコ ミュニティとして闘う原動力の一つなのではないだろうか。今回の講演を通じて強くそのことを実感した。

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