報告:「日本映画史における《女性アクション》」

国際基督教大学 学部生 篠田 恵
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年5月20日、映画学・日本映画史を専門とする鷲谷花氏による講演会「日本映画史における《女性アクション》」が、CGSとpGSS基礎科目「ジェンダー研究へのアプローチ」の共催セミナーとして開催された。「男性のジャンル」とみなされてきたアクション映画において、女性アクションは家父長制の範疇内に留められると同時に、身体的な「女性性」を強調したエロティックな存在として描写される、という二面性が講演全体を通して提示された。
 講演ではまず、物語映画初期の雛型ストーリーが、「ヒーローによるヒロインの救出劇」であったことが指摘された。「正しい」暴力を行使する動的なヒーローと、ヒーローによって悪漢から救い出されるのを待つ静的なヒロインという構図は、今なお強力な物語の枠組みとなっている。物語映画におけるヒロインは欲望の視線の対象として構築され、ヒーローの男性的表象を成り立たせてきた。一方、昭和初期の時代劇には自己の意志に基づいて行動し、男を魅惑すると同時に打倒もする「ヴァンプ」と呼ばれる女性キャラクターが登場し、昭和後期には男装した美空ひばりによるちゃんばら映画が人気を博した。しかし「ヴァンプ」の能動性や攻撃性は「男を犠牲にする悪女」として描かれると同時に、男性的な視線の客体、エロティックな「見世物」として表象され、美空ひばりのアクションシーンもまた、それが「正当な」戦い/アクションとされるには男装して「男」へと変身しなければならなかった。
 1970年代以降の例では、映画において戦う女性が「去勢」されることは、家父長制が脅かされることへの恐怖を、予め取り除く機能があると指摘された。女性が主人公として活躍するように見える宮崎アニメにおいても、「もののけ姫」のエボシが腕を失うなど、戦う女性が身体機能の一部を失う、すなわち「去勢」の場面が設定されている。このような戦う女性に対する「去勢」は現実の社会にも通じている。例えば、働く女性が「女性の視点」から提言をするといった表現や、そのようなかたちで女性の美しさを称揚する表現は、活躍する女性が脅威にならないようあくまで労働市場の中心が男性であることを示す「去勢」として機能しているのではないだろうか。映画などの文化的メディアにおける表象が人々の認識枠組みに影響を与え、同時にその枠組みが表象に反映される、という相互作用を見てとることができた。
 講演の最後に、従来男性の領域であったアクションを女性が「ごっこ」として模倣することの可能性が提起された。「オリジナル」としての男性アクションの「コピー」として過小評価されてきた女性アクションは、まさにその模倣性において従来の男性的表象の素材を組み直し、新たな表現を作り出す可能性を切り拓くのである。しかしながら、女性アクション映画による「ごっこ」/模倣を抵抗の可能性として肯定的に捉える結論部分には疑問が残った。講演でも繰り返し指摘されたように、「コピー」としての女性アクションが男性アクションの「オリジナル」性を脅かさない限りにおいて、家父長的な構造は温存される。一方で、女性アクションを「正統」として中心に据えることもまた、「オリジナル」/「コピー」という構造自体を残してしまう。男性/女性、あるいは「オリジナル」/「コピー」といった二分法を揺るがすような模倣のあり方が期待されるのではないだろうか。

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