私がこの10年間CGSで学んだこと


CGSセンター長、ICU教授:田中かず子
【CGS Newsletter016掲載記事】

 2003年の準備年から数えると、私がCGSとかかわって今年は10年目になる。ジェンダー・セクシュアリティに関心のある人たちのコミュニケーションスペースとして出発したCGSは、学内外のさまざまな人たちの思いやアイディアがバチバチ化学反応を起こす触媒の役割を果たしてきたのではないだろうか。「場」の力は、実にすごい。私自身、CGSとのかかわりの中で、どれだけ触発されてきたことか。以下、私の中で起きた現在進行形の化学反応をみっつあげたい。

 ひとつ目は、性差別構造に、男女二元論と異性愛規範がつながったこと。当然と言えば当然なのだが、近代の性差別構造は男女二元論と異性愛規範を抜きにしては語れない。性別役割分業を前提として男女の格差を論じることは、まさに男女というふたつのカテゴリーを前提とし、かつ近代核家族の異性愛的結合を当然とする議論なのだ。性自認や性的指向をめぐる問題を問うことなく、男女間の不平等を追及していくことは、男女二元論、異性愛を当然視する議論を展開することになる。

 改めて性差別とは、性に基づく差別なのだから、女性に対する差別だけが性差別ではない。人は女か男であるという男女二元論に基づいて、生まれた時に与えられた性別に違和を感じる人たち(=ジェンダー・マイノリティ)を排除するのも性差別であり、異性愛規範から外れる人たち(=セクシュアル・マイノリティ)を排除するのも性差別なのだ。これまでのジェンダー研究では、異性愛でかつ性別違和をもたない「シスジェンダー」の男女を前提とし、議論してきたのではないか。

 ふたつ目は、排除されている人たちを周辺に追加するのではなく、中心に持ってくることについて。異性愛でシスジェンダーの男性を「標準」とした社会の仕組みはそのままに、「男女平等」をもとめるシナリオは、始めから限界があったのだ。性差別構造に挑戦していくためには、無償の家事育児ケアをになう人、かつ男女二元論的構造に違和があり、いわゆる異性愛規範から外れた人を「標準」とすれば、どのような社会の仕組みが必要になるのかと、議論の視点を転換する必要があるのではないか。

 みっつ目は、マジョリティの「当事者性」について。よくマイノリティ自身が声をあげて権利獲得のために立ち上がる必要があるといわれる。力のある側のものが力のないものを代表して論じることはできないが、マジョリティはマイノリティを排除する側の当事者であり、その当事者性をもって排除し不可視化する構造について論じる必要があるのではないか。セクシュアル・マイノリティを排除する構造を異性愛者は考える必要があるし、ジェンダー・マイノリティを排除する構造をシスジェンダーの特権を持つ人たちが問題提起していくべきであろう。排除された側がどうすれば声を上げることができるのかを考えるのは、第一義的に排除している側の責任ではないか。

 さて、あなたはどんな「場」でどんな化学反応を経験してきたのだろう。これまで心の中で温めてきた大切なこと、あったらいいなと思う理想を、ゆるゆると語り合っていきませんか。

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