「ことば」を通してジェンダー・セクシュアリティと向き合う


立教大学大学院特任准教授、ジェンダー研究センター所員:藤田ラウンド幸世
【CGS Newsletter016掲載記事/特別特集:CGS開設10周年へ向けて】

立教大学の藤田ラウンド幸世特任准教授は、2011年度よりpGSSコアコース「言語とジェンダー」講師を担当。CGS所員の一員としても活動しています。この2年間の授業経験と、CGSとの関わりを振り返って頂きました。

 2011年から「言語とジェンダー」クラスを担当しています。この授業は、メディア・コミュニケーション・文化メジャーがオファーする科目でもあるので、授業目標に言語とジェンダーの基礎概念を学ぶことと同時に、自らのジェンダーに関わる「言語使用」に意識的になるということも加えました。それは、私たちのジェンダー意識は、「言語」によって語られることで常識になった、と仮定するならば、ジェンダーについて学ぶだけではなく、自分の日常で使う「言語」にも敏感になり、意識的にそれまでの常識だと考えていた「言語」の裏に潜むシステムに気づくこと、また気づいたあとで自分はどのような「言語」を使うことができるのかまで含めることが必要だと考えたためです。

 ジェンダーに関わる「らしさ」はメディア上の「ことば」として特に顕著に表出されます。「言語とジェンダー」の授業では、新聞の記事を用いたグループディスカッションなどを通して、一人だと、自分の常識で判断して「スルー」してしまうジェンダーに関わる言葉や文脈を、グループで複眼的に拾いだす作業を重ねます。自分の常識は他の人にとっての常識ではないということに気づき、また、メディアには「書き手(ドラマの脚本家、漫画家、新聞記者など)」が存在していること、見えにくい「書き手」の無意識的な、或は、意図的なジェンダー観が内容に反映されていることなどをグループディスカッションで細かく探しだしてもらいます。これはPC(political correctness)を鍛えるトレーニングであるともいえます。

 自分の常識やメディアに批判的な目線をクラスの中で求めるということは、当然、目の前にいる教師である私の言語使用もその材料になります。私がイギリスと日本の大学院で社会言語学を学んだときは、セクシュアリティは言語とジェンダーの範疇に入っておらず、ジェンダーに関わる言語は「社会方言」のひとつのバリエーションであると理解していました。ですから、セクシュアリティに関わる章に関しては、テキストや活動を準備する以上に社会言語学内のパラダイムを乗り越えることが実は大変だったと今、振り返ることができます。多様なセクシュアリティがあるという前提で、学生たちと一緒に、授業全体でディスカッションの後にどこに着地できるかを見届けるのが毎回のチャレンジでした。授業で消化できなかったところは、CGSのスタッフに一緒に考えてもらい、最初から最後まで、受講をしてくれた学生とCGSスタッフと恊働させてもらったと思っています。

 セクシュアリティを含め、ジェンダーを実践するということは、自分の中の男女二元論に支配されたイデオロギーとのせめぎ合いです。このプロセスの中で幾度も、愕然たる思いに直面をしたということが今となっては私の宝物です。ことばに染み付いたジェンダーの意識やジェンダーに関わる多様なアイデンティティの問題意識と格闘することを避けては「言語とジェンダー」を教えることはできないと学んだわけですから。

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