「東アジア×クィア×映像プロジェクト」:福永玄弥
【CGS Newsletter018掲載記事/アジアからのニュース】
ジェンダー・セクシュアリティにまつわる社会運動のあり方は、法や制度との交渉の過程であり、運動の展開の仕方も国や地域によって異なります。日本で開催されている中国クィア映画祭の運営に携わり、東アジアにおける性的マイノリティの運動の研究がご専門の福永玄弥さんに、近年の状況を紹介していただきます。
およそあらゆる地域で試みられた社会運動が闘いの歴史を刻んできたように中国の「性」をめぐる運動も例外ではない。日本や韓国、台湾を含む東アジア諸国と同様に中国でも1990年代に入ってから異性愛規範を問題化した性的マイノリティの運動が大きく展開した。紙幅の制限から、本稿では私が運営に関わった北京クィア映画祭の取り組みを中心に執筆する。
北京クィア映画祭(北京酷儿影展)は2001年に北京大学の学生を中心に設立された。「同性愛をテーマにした映画鑑賞の機会を提供したい」という学生らしい企画は大学による干渉をうけて閉幕を余儀なくされた。映画祭はその後も当局からたび重なる妨害をうけ、やがて「クィア」を掲げた社会運動として中国を牽引する存在へと成長を遂げる。皮肉なことに、当局による抑圧が映画祭を「社会運動」へ導いたのである。2014年の映画祭も北京市政府や警察から警告をうけるが、列車をジャックした上映会などを開催し、得意とするゲリラ戦によって3ヶ月にわたる上映会に成功した。
当局はさまざまな理由で映画祭を締めつけてきた。いずれもとるに足らない理由であることから取り締まりの「真意」は推察によるしかない。ひとつは中国の映画検閲制度である。「同性愛」は「宗教」や「性暴力」などと同じく上映禁止項目とされてきた。事実、第1回映画祭(2001年)で上映された国内の関連作品はわずか6作しかなかった。しかし2014年には40を超える作品が集まり、映画祭はこうして同性愛やトランスジェンダーやセックスワークなど、異性愛規範に批判的な「クィア」な表象を増殖させてきたのである。
もうひとつは中国における社会運動の位置づけである。1989年の六四天安門虐殺は、その後の活動家と当局の双方にふかい傷跡をのこした。多くの活動家はみずからの取り組みを「社会運動」ではなく「市民活動」や「非営利活動」と定義し、いっぽう当局も不特定多数の人びとが集まる恐れのある「運動」をきびしく取り締まってきた。
その歴史をふり返っても、映画祭は当局と衝突しうる状況はしばしば訪れた。しかし経験豊富な活動家たちはストーンウォールのように「反乱」を起こすのでなく、むしろ衝突を巧妙に回避し、当局の注意を逸らして映画祭の命脈を維持する道を歩んできた。ポスト天安門時代の活動家にとっては逃げることも抵抗を意味するのであった。
2015年3月、5名のフェミニストが警察に拘束された事件は日本でも話題になった。5名はいずれも女性や性的マイノリティの権利などを訴えてきた。若き「行動主義フェミニスト」たちは、既存のフェミニズムが「行動」(「運動」)と距離をとってきたことを批判的に捉え、多様な活動を興し、成果をあげてきたが、その活発さゆえに「トラブルを起こすもの」として拘束されてしまった。
逃げること、あるいは行動主義をとること。どちらも私たちと同時代を生きる隣国の活動家たちがつくりあげてきた抵抗の様式である。私たちはそこにいかなる示唆を見いだすことができるだろうか。