飯野由里子×ミヤマアキラ対談:「<名付け>をめぐるポリティクス」採録3

「名乗り」を「引き受ける」?

飯野:話がずれましたけど、噂ではミヤマさんはレズビアンって使わない派だって聞いたんですが、なんかさっき親にはレズビアンって言ったっておっしゃってたんですけど。

ミヤマ:いやそれはよく使う時ありますよ(笑)。

飯野:私もそうですけれども、あんまりレズビアンという名乗りは使わない派だということは前々から聞いていて、それを「ずるい」とも言われたっていう話をちょっと耳にしたことがあって、それはどういう話なんですか?

ミヤマ:それはですね、ある人からそう言われたんですが、ご本人はレズビアンであることにすごく誇りを持っている人なんですね。差別されたり偏見を持たれたりするかもしれないという都合の悪い部分も含めて、覚悟を持ってその名乗りを引き受けた人で、「私はこれからもレズビアンのライフスタイルを模索していくのよ!」ってことを鼻息荒く(笑)語っていたんですけれど。

飯野:待って、レズビアンのライフスタイルって何?

ミヤマ:なんでしょうね、よくわかりません(笑)。その人は、もともと無自覚なヘテロセクシュアルだったんですが、ある時、いままでも自分はずっと女性を好きだったと気づいて、女性の恋人ができたり、クラブイベントやコミュニティとの関わりを持ちはじめ、これからはレズビアンとして生きていくという人生の選択をしたんです。ただレズビアンという名乗りは時には都合の悪いこともある。「レズビアン」という言葉から連想される社会的イメージには蔑みが含まれている面があいかわらずあって、曰く「男に相手にされないから女に走ったんだろう」とか「淫乱なんだろ」とかいうアダルトビデオ的な、すごくポルノグラフィックなイメージで捉えられてしまう。そういう場合にはレズビアンという名乗りは非常に都合が悪い。けれども「でもその都合の悪いネーミングをあえて自分は引き受けたんだ」とその人は言うんですね。私の場合は、「レズビアン」が社会的にマイナスイメージの強い名称だから名乗らないのではなくて、自分にとってしっくりこないからその名乗りを採用しないんです。それで、私は「レズビアン」ではなく「ノン・ヘテロ」という名称が、今は一番しっくりくる」と話したんですよ。そうすると「あなたはずるい、卑怯だ」と言われたんです。都合の悪いネーミングを引き受けないのはずるいと(笑)。私は、いつの話になるかわかりませんけど、ゲイとかレズビアンとかいうカテゴリはなくなってしまえばいいと思ってるんですけれど、そう言うとその人は、「なくなる前にまずゲイやレズビアンのカテゴリを可視化しなくちゃいけないでしょ。だから私はレズビアンの可視化のために名乗っているんだ」と言っていました。

飯野:今の話で、「レズビアン」という名付けを「名乗る」とか「引き受ける」っていう言葉が出てきましたよね。それは都合が悪いことである、っていうのはまあ事実ですよね。やっぱり「レズビアン」って「男になりたい女だ」とか「男っぽい女だ」とか、それだけじゃなくて非常に”セックス”、”性交渉”とか”性行為”とかと密接に結びつけられるカテゴリーだと思うんですよね。それってやっぱり特に「女性」にとってはリスキーじゃないですか。非常にこう、性的にアクティブな…

ミヤマ:性的に活発な(笑)。

飯野:…人だって見られてしまう、そういったリスクというのはあるので、都合の悪いこともある、っていうのは事実だと思うんです。確かにノン・ヘテロっていうとそのセクシュアルな意味合いが若干薄まるっていうような感覚は私も持つんですけれども、ノン・ヘテロってミヤマさん個人的ネーミングなんですか?

ミヤマ:ううん、誰かが言ってたのを拝借している(笑)。誰が言い始めたのかは私は知らないんですけれど。

飯野:ふーん。異性愛でないっていうことはわかっているけど、それがどういう意味なのかはわからない、という意味での「ノン・ヘテロ」という名称/カテゴリーを使っている。

ミヤマ:はい。

飯野:ずるいとか卑怯とかっていうのはちょっと変な話だけれども、都合の悪いこともある、っていうのはたぶんそうで、ある種の人たちがその「都合の悪いこと」も一身に引き受けて「わたし、名乗るわ!」っていう気概をもっているっていうのもたぶん事実だと思うんですよね。でもなんかそこで、ほんと立派だと思うんだけれど、なんかちょっとそれ違うんじゃない?っていうところもあるんですよ。私たちはいったい自らのセクシュアリティをどうしたかったのか、というところで、可視化することが目的だったのか、それともセクシュアルなものとしての自己、っていうのかな、それを自由に形成して行く空間というものが本当は必要だったんじゃないのかな、って思っているので、卑怯だって言われるとキツいし、ぐうの音も出ないな、って感じです(笑)。私自身もあまりそのカテゴリーというもの自体使わないので。

名乗りの未来に向けて

飯野:さて、あと10分らしいですよ。最後にもう一つのトピックいきましょうか。私たちこれ全然空白なんです(笑)。なんでしたっけ、えっと、「名乗りの…

ミヤマ:未来。

飯野:未来(笑)。これまでの話の中で、異性愛として名乗ることと、非異性愛として名乗ることの非対称性っていうのも、みなさんなんとなく理解してくれたと思うし、非異性愛の人が名乗るということに何かが賭けられている、っていうのもわかったと思います。それが全面的にいいことなのかっていうと、そこにも色んな複雑な問題が含まれている。簡単にパッケージに入れこんでしまったり、名前を名乗っている人たちに対して、あるいはそれを強要してしまったりするのもよくない。じゃあ異性愛の人たちも一生懸命名乗ってください!とかっていうのもまた違うというのも、わかってもらえたと思います。
 ということで名乗りの未来なんですけども(笑)、これまでの話の中でも出てきたように、ミヤマさん自身はあまり「レズビアン」というカテゴリーを用いて、ミヤマさん自身を説明しない派。

ミヤマ:今はそう。まあ場合によっては使っちゃうこともあるんですけれども。

飯野:まあその方が便利な時はあるもんね。

ミヤマ:うんそう。ただ基本的には、なんでわざわざ非異性愛を名乗るの、っていう疑問が最初に出てきましたけれど、その疑問は私もある意味本当にその通りだと思っていて、「わざわざ名乗る必要のない場」が一番居心地がいいと感じるんですね。なぜ居心地が良いかというと、いろんなセクシュアリティの人がいることが前提になっているからこそ、言わなくても別に問題はない。言わざるを得ないような状況に追い込まれることがないから、すごく楽でいられるんです。けれども、やっぱり異性愛がデフォルトになっている場や、あるいはレズビアンやゲイの集まりでもちょっと居心地が悪いと感じることがあります。その場を占める多数派の声がいちばん大きくなりやすいし、セクシュアル・マイノリティというとゲイしかいないと思っている人たちもいるので、そういう場ではすごく居心地の悪さを感じます。

飯野:わざわざ名乗る必要がない場、っていうのはどうしたらつくれると思いますか?(笑) 

ミヤマ:難しいことを(笑)。どうしたら作れるんでしょうね。それは本当に私も知りたいです。最近「ミルク」という映画が上映されているじゃないですか、ハーヴェイ・ミルクの。昨日か一昨日くらいにネットを見ていたら、その映画の感想を書いているブログがあって、書き手はどうやら男性らしいんですが、「映画はとてもよかったけれど、僕は(僕だったか俺だったか忘れたんですけど)同性愛者のことが大嫌いだ」と書いているわけですよ。でもまあ映画のことはそこそこ評価している。それについてコメント欄で「あなたがそういう風に同性愛嫌悪的な批判をするのは甚だ遺憾です!」みたいなコメントがついていたりして(笑)。でもそのブログ主は「ここでは自分の主観を述べたまでです」と言っていて、こういうやり取りは以前も何度か見たことがあってすごく懐かしいなと思いつつ、当時の私はこれについてどういう結論をだしたっけなあ…となっちゃって。それでまた改めて考えてはいるんですけれども。あまり上手い例えが思いつかないんですが、「わたしはアメリカ人が嫌いだ!」と言うのと「同性愛者が嫌いだ!」というのは、何が違うんだろうなと考えたりします。自分の好き嫌いを表明することは別に悪くないと思うけれども、「同性愛者は嫌いだ、あんな連中がいるかと思うと寒気がする」というような言説を目にすると、なんでこんなに胸が苦しくなるのかなって。それは自分が当事者であるという理由だけではないような気がするんですよね。

飯野:へぇー。じゃあ「日本人は嫌いだ!」っていう場合は(笑)

ミヤマ:それは全然いいと思います(笑)

飯野:なんか違いがあるんだ(笑)

ミヤマ:なんでしょうね、なんか違いがあると思うんですよね、なんでなんでしょうね(笑)

飯野:わからない。私はたぶんそれは感じないかもしれない。ミヤマさんがデルタGっていうサイトをやっているんですけれども、去年もその話になって、あえてレズビアン向けの、レズビアン・バイセクシュアルの女性向けのサイトです、って名乗らないで始めたっていうところに非常に興味をもったんですよね。私が本のなかで取り上げた1970年代後半から現代まで続いているミニコミ誌なんかは、むしろ「わたしたちはレズビアンのためのミニコミ誌です」という風に、自ら名付けて、そう名乗ることによって読者にもある種の安心感を与えるっていう効果があったんだと思うんです。名乗ることがその読者たちに、ここがその安心/安全な空間なんですよっていうことを表明するっていうか、告げ知らせるような効果があったと思うんですけれども、だからミヤマさんがあえてそれを用いなかった、っていうところはどういう意図があったんですか。それはそのサイトの目的とかもあったのかもしれないけれども、どういう判断があったのかなっていうところがちょっと気になっていたんです。

ミヤマ:それはわたし個人がレズビアンという名乗りを採用していないということもあって、いまの時代に「レズビアンのためのサイト」を作ること自体はOKだと思うんですけど、わたしにはそれはできないなとシンプルに思ったんですね。あと、70年代からミニコミの文化ができて、発達して、90年代にようやく商業誌が出てきたじゃないですか。「アニース」とか、ほかにもなんかありましたよね。

飯野:エッチな本のやつ?

ミヤマ:エッチな本?「カーミラ」?(笑) 

飯野:あ、なんか可愛いこと言っちゃった?(笑)

会場:(爆笑)

ミヤマ:「カーミラ」は2000年代かな? 「アニース」は90年代半ばに出て、あともう一つ同じ系列のレズビアン向けの情報誌が出てたんですが、すごく寿命が短かったんですよ。それは単にレズビアン人口が少ないから売れないってことなのかもしれないし、もう一つには、あんまりネタがないんじゃないかなっていうことも(笑)考えたんですね。

飯野:つまらないってことですか(苦笑)

ミヤマ:いやいや(笑)、「レズビアン」についての情報に限定してしまうとそれ以外の情報はコンセプト的に載せられないから、やっぱりネタに困るんじゃないかなと思ってたんですね。

飯野:なるほど、レズビアンセックスについて書いて欲しいって言われてもネタが尽きると。

ミヤマ:そうそうそう。蓄積してまたいつか出すことはできるかもしれないですけど、定期的に発行するもので、毎回限られたネタの範囲内で情報を提供していくのは結構しんどいのではないかと思ったんですね。デルタGは今ほとんど私一人で更新作業をやっているので、ネタがないわけではなくて、ネタのアップデートが追いつかない(笑)だけなんですけれど、そういう風にコンセプトを閉じてしまうと提供する情報も限られる。読者のためにというよりは自分のために作っているようなところもあって、自分の関心興味を閉じておきたくない、ということも理由のひとつとしてあります。
あと、いま私はフェミニズムというか、女性の活動、女性を元気にさせるような活動にちょっと関わっていて、そこでもやっぱり「女」であることがデフォルトにされているというか、「女の運動」と言ったときの「女」についても暗黙の了解があるんですよね。「このグループは女の運動をやっているから」っていう理由だけでえこひいきをしたりするようなところがあって…

飯野:(笑)。えこひいきって?

ミヤマ:優先的に扱うっていうのかな、そっちを。

飯野:誰と比べて?

ミヤマ:「女の運動」をやっていないところと比べて。今とある情報誌を作っていて、そこにどういう情報を載せるか載せないかという選別をするときに、ここは女の活動にすごく力を入れてるから、ここはちゃんとホームページも持ってるし、URLもちゃんと記載しましょう、と言って優先的に載せる。私が、「こういう活動やっているところがある、ああいう活動をやっているところがある」と情報を提供すると、それはセクシュアル・マイノリティ系のものとして出したんですけれど、そのなかでもやっぱり女の活動をやっている方を優先的に扱う。でもその「女」って誰?っていうのが私にはいまいち分からなくて、そういう部分への抵抗を感じてはいますね。

飯野:もう時間らしいんですけれども。名付けることって、ともするとある種閉じてしまうことだったりしますよね。でも、名付けも名乗りも必要だったりする場合もある。自分の「名前」を持ちながらも、もう片方の手で、それを開いておく必要もあって、閉じさせないためにはどうしたらいいか、閉じないでおくためにはどういう限界があるかっていうことを、今の研究なり、恐らく運動なりも考えているのではないかなあっていうように思います。
 一旦ここで休憩をとらせてもらって、この後もディスカッションということで続けていきたいと思います。

会場:(拍手)

質疑応答

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