CGSは今学期も読書会を開催します。一つ目は月曜ランチに「パレードを通して、カミングアウトを考える。」と題した初心者向けセクシュアリティ読書会。2つ目はヨーロッパの2000年間にわたる性差の観念史を描いたトマス・ラカーの大著『セックスの発明』。3つ目は自我(アイデンティティ)を一貫したものとする考えを複数の論者がそれぞれの立場から批判的に論じた論文集、『脱アイデンティティ』。
02. CGSのイベント: 2006年4月アーカイブ
CGS運営委員会 : 加藤恵津子
【CGS News Letter005掲載】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
この春、ICUジェンダー研究センターは3年目を迎え、そしてジェンダー・セクシュアリティ研究プログラム(PGSS)は2年目になります。そしてPGSSの記念すべき一期生がこの3月に卒業し、それに続く登録希望者も急速に増えつつあります。その背景には、熱意あふれる教員や講師たちによる講義・講演会の数々はもちろんのこと、総勢30余の学生スタッフの質とモチベーションの高さがあります。自主的に読書会を次々と企画し、海外の人々にも臆することなく接しています。大学の研究所と呼ばれるものは数あれど、これほど学生の力に負っている所はないといっていいでしょう。
國學院大學法科大学院 : 田口辰徳
【CGS News Letter005掲載】
【要約】
2005年10月21日、CGS・就職相談室の共催による講演会「公序良俗に負けなかった女たち」が行われた。講演者は、住友電工男女賃金差別裁判の元原告の一人である西村かつみさんと、同元弁護団長の宮地光子弁護士。同裁判の内容はNL001号でお伝えした通りだが(HP上でも公開中)、今回の講演会では、日本における雇用の実態について知ることができた。
現在、雇用における問題の中心は間接差別だ。その代表的な例が、女性に対するものである。主に女性が占めていた一般職の採用は減る一方であるのに対し、総合職における女性の割合は未だに1割程度といわれている。これは事実上、女性を正規雇用の仕事の現場から排除しているといえるのではないか。
また、パートタイムや派遣など、正社員とほとんど変わらない仕事をしているのに、賃金は大幅に低い状態にあるような雇用形態も問題である。とりわけ、現在パートタイム労働者・派遣労働者の実に7割近くが女性である。未だに女性が多くの家事・育児労働を担っている状況下において、女性がパートタイム労働や派遣労働を選択せざるを得ないという社会的問題を忘れてはならない(平成14年版及び15年版「働く女性の実情」)。
今年、均等法は改定される予定だ。いま、そこに間接差別の禁止が盛り込まれることが強く望まれている。もし実現すれば、雇用における問題は大きく改善されるはずだ。今回の講演者の二人も、そのような実効力のある均等法にするため日々活動している。
ICU学部生 : 河村翔
【CGS News Letter005掲載】
2005年10月26日、村上陽一郎教授による科学史フォーラムにおいて、「ラボワジェ夫人:化学革命に参加した女性」というタイトルのもと、名古屋工業大学大学院工学研究科助教授川島慶子教授による講演が行われた。擬人化された可愛いカエルが登場人物をつとめる漫画をレジュメ代わりにしながら、科学史をジェンダーの視点で読み直し、科学のなかにあるジェンダーバイアスを明らかにする必要があると主張された。
ICU学部 : 田中洋兵
【CGS News Letter005掲載】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
2006年1月14日、ICUにて、津田塾大学英米文学科よりクレア・マリイ氏を迎え、「言語上のネゴシエーション─「オネエ言葉」と日本語のジェンダー言説」と題された講演会が行われた。
中央大学 : 清水晶子
【CGS News Letter005掲載】
『ジェンダー・トラブル』が世に出て15年以上、同書の邦訳が出版されて5年以上たって、ジュディス・バトラーがようやく来日を果たした。「セックスは常にすでにジェンダーである」と唱えて90年代のジェンダー理論におけるパラダイム転換の象徴となり、同時にクィアなジェンダー表現の政治的可能性を理論化してクィア・スタディーズの基本文献の一冊にもなった同書は、バトラーの代表的著作の一つであり、その理論的な有効性は現在も失われてはいない。とはいえ、初版から15年の間にバトラー自身の論考の焦点も少しずつ変化している上、日本のフェミニズムやLGBTの理論・運動が直面する問題は、当然のことながらアメリカ合衆国のそれと同じではない。従って、バトラーが「はじめての」聴衆を前に、『ジェンダー・トラブル』のジュディス・バトラーとして彼女の現在の問題関心をいかに語るのか、今回の来日にあたって私たちの興味と期待は当然そこに向かったが、逆に、今彼女から何を学ぶのかをあらためて考え直すことが、聴衆である私たちにとっての課題であったように思う。