01. CGSから: 2011年6月アーカイブ

ICUジェンダー研究センター(CGS)運営委員有志は、ICU祭でのミスコン企画に深い憂慮を表明します。
ミスコンがある種の外見/能力/振舞の人間像を規範とする抑圧構造に依拠するものであることには、過去20余年、多くの議論の蓄積があります。
日々、見つめられ、判断される、個々人への視線の暴力を、ICU祭の場で、キャンパスで、再生産することに異議を唱えます。
特技やパフォーマンスを評価基準に加えることで、ミスコンが持つ「規範による人間の序列化」が無化されるものではありません。
またポータルサイトを利用することにより、参加者が客体化され管理不可能な場に流通していき、想定外の人権侵害を引き起こす危険性も憂慮されます。

コンテストに参加するしないに関わりなく、全てのICU生とICU祭来場者がこの企画の提示する序列に組み込まれ、そのことにより、またこの企画を巡る女性/マイノリティへの配慮を欠いた言説により、傷つく人、傷ついている人がいることを憂慮します。

私たちは学生の皆さんの行動を禁止するものではありません。
しかしキャンパス内に人権侵害をもたらす恐れのある企画については、自発的な再考を望みます。

2011年6月 CGS運営委員有志

CGS センター長/国際基督教大学 上級准教授:加藤恵津子
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011 年度春、CGS は、新入生歓迎企画として全3 回の「セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズ」を開催しました。「セルフ=アウェアネス」とは日本では耳慣れない言葉ですが、直訳すれば「自分に気づいている状態」。自己の存在と、そのかけがえのなさに気づいていることを意味します。
 「自意識が高い」という日本語には、いまだに否定的・批判的な含みがあります。最近では育児書やビジネス書に「自信力を育てる」などの表現が見られるとはいえ、成人が、自分が自分だというだけで自分を大切に、誇りに思うよう奨励される機会は、日本では少ないように思います。これは日本を含むいくつかの文化圏における「自己」の捉え方の特徴から来ていると考えられます。
 ある文化心理学の研究によれば、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ・南欧の人々は、自己を家族や友人などとの関係で規定する、つまり自己を周囲の人との「相互依存的」イメージで捉えるといいます。これと対照的なのが、周囲の人々や状況がどうであっても、自分が何者であるかは常に変わらず一貫しているという、北米や西欧の人々の「独立的な」自己観です。
 「相互依存的な自己」観は、他者への思いやり、争いの回避など、多くの良きものへとつながります。しかし同時に、不快・苦痛があっても改善の努力をせず、結果としてトラブルに加担する場合もあります。たとえば、「自分はその気も準備もないが、パートナーからセックスを求められ応じる」ほか、「夜道で知らない人に道を聞かれ、無視すると悪いので対応する」「教師や先輩に二人きりで飲みに行こうと言われ、嫌だがついて行く」といった行為は、「思いやりのある人」が陥りやすいトラブルへの入口です。
 このような自分の弱点に気づいていること。他者からのまなざしや評価よりも、まずは自分自身が大事だと認識していること。自分には自分を守れる力や知識があると知っていること。これらの「自意識」が私たちを守ると信じ、毎月異なるアプローチを企画しました。4 月はNPO 法人ぷれいす東京代表の池上千寿子氏に高校までの性教育が取りこぼしていた性に関する知識を、5 月は本学英文学准教授のC. サイモンズ氏にゴシン(護身・護心)のスキルを、6 月は広島大学の北仲千里氏に被害者にも加害者にもならないためのキャンパス・ハラスメント防止策を講じていただきました。いずれも最新の情報に基づく実践的なワークショップでした。来年はさらに充実した「自己との出会い」を企画したいと願っています。

国際基督教大学 学部生
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年4月25日、性科学者でありNPO法人ぷれいす東京の代表を務める池上千寿子さんによる講演会「今なら聞ける! 性のジョーシキ・非ジョーシキ」が、セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズの第一弾として開かれた。5問のクイズを元に、避妊・性病・セックス・性差など、多岐にわたる話を池上さんがレクチャーした。
 レクチャーの中で興味深かった点として、自分の身を自分で守るためにコミュニケーションすることの意義を強調したことが挙げられる。池上さんは避妊や性病の問題は信憑性の低い知識が多いため個々人が持っている「正しい」知識の間に齟齬が生まれやすく、知識と行動が結びつきづらいという難しさがあることを指摘した。これらの問題の解決策として必要なことは、たとえ話しにくい内容であっても、自分の身を守るためにカップル間でコミュニケーションをしていくことであり、そのような関係を築けるのが良いカップルなのだという。つまり、自分の身を自分で守るためには、避妊具だけではなく、コミュニケーションを通して避妊や性病の予防を自ら行うことが重要なのである。
 また、セックスの定義を見直すきっかけが得られた点も興味深かった。一般的に「セックス」として捉えられるものはPenetrating(挿入)と射精の二要素を含む行為のみであり、極めて限定的だ。しかしこの講演会では、スキンシップという「快」の最も根本的な行動をセックスの定義として捉えるNon-penetrating sexの可能性が主張された。受講者の中には困惑し、質疑応答の時間に直接疑問をぶつける人もいた一方、「セックス」という概念がもつ挿入の恐怖や射精の強制感から自由になったという人も見られた。多くの受講生がセックス、ひいては性について考えるきっかけとなったこの話題には、さまざまな反応があったが、これらの反応は、いかに性の領域に思考のメスが入れられていないかを示すものだと感じた。
 私がこのレクチャーに参加した理由にはいくつかあるが、告知にあった「『受験や学業・就活がまず重要!』と、性について考えることを後回しにしていませんか?」という言葉が、セクシュアル・マイノリティである私の現在の立場に合致していたことが理由のひとつだ。今回は特に異性愛の女性をターゲットにしたレクチャーだったように感じたので、セクシュアル・マイノリティに関する情報をもっと聞いてみたかったというのが正直な気持ちではある。しかし、池上さんの主張された、正しい知識に基づいて自分の身を守ることや、性についての自分の固定観念を見直すことは、性的指向に限らず重要だと思う。私を含む大学生の多くは、性についてよく考えることもなく大学を卒業し、気がつくと「大人」と呼ばれる対象になっている。しかし、性についてあやふやな情報源から得た少ない情報しかもっていないため、「大人」の世界に飛び込んでいくことに対しては一種の恐怖を抱きがちだ。性病や妊娠のリスクを強調されることでさらに萎縮してしまうことも考えられるが、予防を強調することで伝えたいことは、セックスの恐さではなく、不安を取り去ることで得られる安心感ではないだろうか。それは、レクチャー後に池上さんが言われた「予防することでもっと気持ち良くなる」という言葉に表れていたように思う。

国際基督教大学 学部生 リラ・デント
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年5月21日、CGSの運営委員で、ICUでは英文学指導でおなじみの C.サイモンズ准教授による『ゴシン術』のワークショップが行われた。会場の体育館には大きなエクササイズボールがいくつも転がっていて、「自己防衛のクラスに、ストレッチ運動は関係ないよね?」という疑問が浮かび、一瞬ピラティスのクラスにでも迷い込んだ気さえした。90分間のワークショップでは、様々な角度からの自己防衛術の知識の披露と、実地演習を通して楽しく学ぶことができた。
 何週間にもわたって指導教官に首を絞められたり、2リットルのペットボトルを相手にボクシングの真似事をさせられたりするアメリカの高校の自己防衛のクラスとは違い、サイモンズ先生のワークショップはまず、日常の問題的状況での「自覚がある」行動様式と「自覚がない」行動様式を比べるスキットから始まった。参加した学生達は、道ばたの不良のやじに悩まされたり、電車で痴漢に襲われる女性のスキットをみた後、自分達も演技をすることになった。グループに分かれ、怪しい人間が近づいて来たらどのように先手をとって身を守るかの練習を行った。こうした状況からうまく逃れるための手段は、そう難しいものではない。誰かが「自分の領域」(簡単に手が出せる距離内)に割り込んで来たと感じたらすぐにキッと目を合わせ、不安そうな姿勢を見せず、しっかりと足早に歩いて離れるのが基本である。
 それから話題はもう少し深刻な状況に移り、サイモンズ先生は一般市民が実際に誰かに襲われた場合、身を守るためにできること・すべきことを説明した。「何よりも『前向き』の思考にすることが大切です。まず、可能なら逃げることが一番です。逃げるのはカッコ悪いなどと思ってはいけません。でも、もし追いつめられたら、逆に前へ出て反撃する必要があります。本当に戦うのだから決して奇麗ごとではないですよ。ただ、自分の動きをいちいち考える必要はありません。」襲われる場面においても、最も効果的なのは、簡単で自然な動きである。向かい合って、相手の体の中心線から外れるように横に一歩ずれる。そして決め手となるのが「楔形」の動き。人間が驚いたり怖いものに面したときにでる、両手を三角形に揃えて体の前に上げて身を守ろうとする本能的な動きを、より意識的に、しっかりと狙いを付けるだけだが、誰にでも簡単にできるうえに、驚くほど効果がある。対人の演習に続いて、やっと例のエクササイズボールが登場した。飛びかかってくる大きなボールを「楔形」でたたき返すと、面白いように吹っ飛んでいく。体育館はボールの弾む音と皆の笑い声で一杯になる、ワークショップのハイライトだった。
 最後に参加者の一人が「特に日本のように、公の場での衝突を嫌う文化のある国に住む人にとって、有益なワークショップでした」とコメントしたように、充実した90分だった。『自己防衛ゴシン術』はカンフー映画に出てくるような豪快アクションとは限らず、「領域の自覚」や「前向きの思考」の観念や「楔形」の知識など、簡単なことを毎日の生活に取り入れることから始まるのだということを、皆を十分に楽しませながら教えて下さったサイモンズ教授に、厚く感謝の言葉を贈りたい。

CGS 所員/国際基督教大学 講師 上遠岳彦
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年6月14日、セルフ=アウェアネス・ワークショップ・シリーズの第3回として、「加害者にも被害者にもならない! キャンパス・ハラスメント」と題して、広島大学ハラスメント相談室の北仲千里先生による講演会が、ICU人権委員会の協賛で開かれた。
 まず、セクシュアル・ハラスメント(以下SH)について、具体的な事例を含めて解説された。たとえば痴漢は、それを行った個人に責任が帰せられるのに対し、SHは、その背景に、教員と学生、上司と部下、就職面接での面接官と志願者など「対等でない力関係」が存在することが多く、問題解決の責任も、個人だけでなく、学校、会社、団体と言った組織の責任も問われる性質のものであることが整理して示された。また、しばしばSHと認識されにくいケースとして、同性間、あるいは学生同士などの同世代間で、"サークルの飲み会で性体験の話を強要される"などのケースも紹介された。SHを類型化すると、優位な地位を利用して主に1対1で起こる「対価型(地位利用型)」、職場で噂を広められるなどの1対複数で起こる「環境型」に分けることもできるというが、これも、SHの認識には役立つ。「環境型」では、その背景に女性や性的マイノリティーの方への社会的蔑視なども深く関わってくるだろう。
 講演では、職場、大学での、パワー・ハラスメント、アカデミック・ハラスメントにも触れられた。多くのSHケースは、その根底に対等でない権力関係が存在しているため、これらは、しばしば混在する。暴力的な行為や脅しなどの「分かり易い」ハラスメントだけでなく、精神的な追いつめなどのモラル・ハラスメント、メンタル・ハラスメントなどの事例を伺うと、だれでも経験するような事柄、例えば「厳しい指導」の延長線上に現れてくるもので、決して特殊な人が行うハラスメントだけではないことが分かる。とくに、加害者本人に加害意識が全くないケースも増えているということで、それぞれの立場で、ハラスメントに対する知識と感性が求められる。
 SHについて話題になるとき、「どこまでがSHになるの?」と聞かれることも多い。これは、「どこまでやったらSHになるか」という「心配・恐れ」があると共に、その奥に「SH(或いは犯罪)にならないところもまでならやってもよい、やりたい」という意識があるかもしれない。この問いに対して北仲先生は、SHを「地位や権限を濫用して被害者の性的自由(性的自己決定権)を侵害する行為」と定義し、「『どんな言葉や行為をしたらSHか』という発想ではなく、『どういう立場の人は、どんな場面では何をしてはならないか』『性的な言動を拒絶された後で、どんな嫌がらせをしたら問題か』というふうに考えるべき」と述べている。法律や一般論から考えるのでは無く、ケース毎に異なる個別の人間同士の関わりとして、一人一人が考えて行く必要があろう。
 最後に、被害を避けるには、まず知識を持ち、嫌なことがあったら早めに誰かに相談すること、そして、記録を付けておくこと、が大切であるということであった。個々人が 「すべての人を大事にする」精神を持って身近なハラスメントに声を上げて行くことが大切だが、そこに力関係が存在する以上、周囲の人の協力と、相談できるシステムの充実が求められる。

国際基督教大学 学部生 大久保徹朗
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年2月10日、CGSとの共催で「民族学地域研究」の授業の一環として「HIV/エイズを考える̶病の他者化への抵抗̶」と題されたセミナーが開催された。名古屋市立大学の新ヶ江章友さんは、文化人類学や疫学など、学術的な視点から、ぷれいす東京・JaNP+の桜井啓介さんは、HIV陽性の当事者として、また支援者でもあるご自身の経験から、日本におけるHIV/エイズの現状やそのイメージを語った。
 新ヶ江さんの講演では、HIV/エイズの感染拡大防止施策におけるゲイコミュニティの働きに焦点が当てられた。中でも従来の「上」から情報を与えて予防を促す「実践コミュニティ」に代わる、構成員それぞれが主体的に行動して情報を交換しあう「生社会コミュニティ」の可能性が紹介された。しかし、「コミュニティ」にどこまで可能性を見いだせるのか疑問もある。なぜなら、新ヶ江さん自身が述べた通り、情報技術の発展をうけ、同性愛者たちはゲイバーなどの対面式のコミュニティを介さず、インターネットを通じてダイレクトに出会うようになってきているからだ。MSM(Men who have Sex with Men)に対するHIV/エイズ予防啓発活動の手段として、より新しい方法も検討する必要があると感じた。
 桜井さんは「差別」や「病」という一見重苦しいテーマをコミカルに語っていて、思わず笑わされたが、同時に深く考えさせられもした。特に印象的だったのが「自分はHIVよりも睡眠時無呼吸症の方が重大なことなのに、他人になかなかわかってもらえない」という話だ。私も桜井さんの話を聞くまでは、現時点で根治不可能なHIVの方が当然、より「重大な」疾患だと感じていた。しかし、感染状況をコントロールできているHIVに対し、重症の睡眠時無呼吸症候群を治療しないまま放置した場合、8年後の生存率は60%程度だという。医学的・科学的な評価というのは一見ニュートラルで絶対的な考え方に思えるが、その全てがイメージや文化的な文脈と密接につながっているのだと改めて気付いた。
 今回の講演では、殆どMSMの文脈でHIV/エイズの問題が語られた。実際、「HIV/エイズはゲイの話」だと思っている人も多いと思う。確かに日本における累計HIV感染者12,623人のうち、同性間性的接触によるものは6,658人なのに対し、異性間性的接触によるものは3,838人である。両者の人口比率を考えれば、異性愛者が感染する確率は同性愛者/MSMに比べてかなり低いように思えるかもしれない。しかし、累計エイズ患者5,783人のうち、同性間性的接触によるものが1,923人なのに対し、異性間性的接触によるものは2,259人にのぼる。HIVに感染しても、早期に発見し適切な治療を行うことで、エイズの発症は防ぐことができる。このことを踏まえると、エイズ発症者に占める異性愛者の割合が、HIV感染者に占める異性愛者の割合よりも高いということは、異性愛者でHIV検査を積極的に受けている割合が相対的に低く、そのためにエイズ発症時にはじめてHIV感染が発覚するケースが多くなっているのが大きな要因の一つではないかと考えられる。「HIV/エイズはゲイの話」という考えの裏に「私たちには関係ない」という意識が隠れていませんか?

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参考文献
(公財)エイズ予防財団 2010年12月時点の累計HIV感染者数/累計エイズ患者数
http://api-net.jfap.or.jp/index.html
田辺繁治,2008,「今村『時間論』と生社会コミュニティ」『東京経大学会誌 経済学』259:260-248.

国際基督教大学 学部生 篠田 恵
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
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 2011年5月20日、映画学・日本映画史を専門とする鷲谷花氏による講演会「日本映画史における《女性アクション》」が、CGSとpGSS基礎科目「ジェンダー研究へのアプローチ」の共催セミナーとして開催された。「男性のジャンル」とみなされてきたアクション映画において、女性アクションは家父長制の範疇内に留められると同時に、身体的な「女性性」を強調したエロティックな存在として描写される、という二面性が講演全体を通して提示された。
 講演ではまず、物語映画初期の雛型ストーリーが、「ヒーローによるヒロインの救出劇」であったことが指摘された。「正しい」暴力を行使する動的なヒーローと、ヒーローによって悪漢から救い出されるのを待つ静的なヒロインという構図は、今なお強力な物語の枠組みとなっている。物語映画におけるヒロインは欲望の視線の対象として構築され、ヒーローの男性的表象を成り立たせてきた。一方、昭和初期の時代劇には自己の意志に基づいて行動し、男を魅惑すると同時に打倒もする「ヴァンプ」と呼ばれる女性キャラクターが登場し、昭和後期には男装した美空ひばりによるちゃんばら映画が人気を博した。しかし「ヴァンプ」の能動性や攻撃性は「男を犠牲にする悪女」として描かれると同時に、男性的な視線の客体、エロティックな「見世物」として表象され、美空ひばりのアクションシーンもまた、それが「正当な」戦い/アクションとされるには男装して「男」へと変身しなければならなかった。
 1970年代以降の例では、映画において戦う女性が「去勢」されることは、家父長制が脅かされることへの恐怖を、予め取り除く機能があると指摘された。女性が主人公として活躍するように見える宮崎アニメにおいても、「もののけ姫」のエボシが腕を失うなど、戦う女性が身体機能の一部を失う、すなわち「去勢」の場面が設定されている。このような戦う女性に対する「去勢」は現実の社会にも通じている。例えば、働く女性が「女性の視点」から提言をするといった表現や、そのようなかたちで女性の美しさを称揚する表現は、活躍する女性が脅威にならないようあくまで労働市場の中心が男性であることを示す「去勢」として機能しているのではないだろうか。映画などの文化的メディアにおける表象が人々の認識枠組みに影響を与え、同時にその枠組みが表象に反映される、という相互作用を見てとることができた。
 講演の最後に、従来男性の領域であったアクションを女性が「ごっこ」として模倣することの可能性が提起された。「オリジナル」としての男性アクションの「コピー」として過小評価されてきた女性アクションは、まさにその模倣性において従来の男性的表象の素材を組み直し、新たな表現を作り出す可能性を切り拓くのである。しかしながら、女性アクション映画による「ごっこ」/模倣を抵抗の可能性として肯定的に捉える結論部分には疑問が残った。講演でも繰り返し指摘されたように、「コピー」としての女性アクションが男性アクションの「オリジナル」性を脅かさない限りにおいて、家父長的な構造は温存される。一方で、女性アクションを「正統」として中心に据えることもまた、「オリジナル」/「コピー」という構造自体を残してしまう。男性/女性、あるいは「オリジナル」/「コピー」といった二分法を揺るがすような模倣のあり方が期待されるのではないだろうか。

CGS研究所助手 pGSSサポート担当 安永達郎
【CGS Newsletter014掲載記事】【ペーパー版と同一の文章を掲載】
 ジェンダー・セクシュアリティ研究プログラム(Program in Gender and Sexuality Studies:以下PGSS、ピグス)が創設された2005年当初、教養学部は6つの学科で構成されており、PGSSは学科間専攻プログラムの一つと位置付けられた。2008年度の教学改革によって学科を統合しメジャー制度を導入したことで、PGSSはプログラムから32あるメジャー(専攻分野)のひとつとなり、独自のメジャー表記としてpGSSを使っている。2010年度までにPGSS専攻でICUを卒業した学生は累計で22名である。しかしながら今年度はpGSS専攻で卒業研究を行う学生が12名に急増し、メジャー制度への移行によってpGSSがアクセスしやすい選択肢の一つとなっていることがうかがえる。学内におけるpGSSへの関心は、確実に高まってきているといえる。CGSはpGSSを魅力的なメジャーにすべく、その運営を支援しながら、pGSSを専攻する学生を様々な形でサポートしている。
 筆者自身、2008年にPGSSでICUを卒業した。現在はCGSでpGSSのサポート業務を担当しており、自身の経験をふまえながら、いかにしてICUの学生にジェンダー・セクシュアリティ研究の魅力を伝え、pGSSでの充実した学びを支援できるかについて日々模索している。pGSSでの学びが学生のその後の人生に対して提供できる価値をいかに伝えるかという重大な課題を乗り越えるには、pGSSをふたつのアプローチから価値付ける作業が必要となるだろう。
 第一に、職業生活とのレリバンスをポジティブに捉えるアプローチである。若年層の就業問題が日本社会の重大な課題として顕在化して以降、学校教育の職業に対するレリバンスを問い直そうとする議論も多く見られる。そういった状況においてCGSに課せられる重大な使命は、ミクロなレベルで学生に寄り添うことで、学生の就職を取り巻く日本の労働市場や職場で起きているポジティブな変化を捉え、ジェンダー・セクシュアリティ研究ならではの利点を広く伝えていくことであろう。多くの日本企業は男女共同参画への取組みに強い関心を示してはいるものの、依然として抜本的な成果をあげるケースは限定的である。pGSSを専攻しながら就職活動をする学生からは、面接で人事担当者がジェンダー研究に対して関心を示すケースもあるという話を耳にする。日本社会全体が男女共同参画に向けて変化する中で、pGSSを通して得た視点は企業の制度や組織作りに有益なものとして評価され得ると言えるだろう。
 第二に、ICUのリベラル・アーツ教育の本来的な理念からpGSSを評価するアプローチである。学問分野の垣根を超えた「教養教育重視型のカリキュラム」こそが、ICUのリベラル・アーツ教育の本来的な特徴である。そうした前提のもとに、ICUならではの学びのひとつとしてpGSSの価値を見出すことも重要であろう。つまり、職業生活も含むあらゆる社会生活に応用可能な、より抽象的なレベルでの思考能力や多角的な視野を養う為の学びとして価値付けることが必要である。あらゆる人々がジェンダーやセクシュアリティの構造と権力関係の中に置かれ、困難を抱えながらも適応や抵抗を繰り返しながら生きているという事実に意識的になることは、ひいては自分自身や他者に対するより深い理解と思いやりに繋がると筆者は感じている。社会集団の中で人々と向きあう根本的な能力をこそ、pGSSを含むリベラル・アーツ教育で養われるべきではないだろうか。筆者自身、ICUでの学びはそうした視点と思考能力を身に付けるひとつの訓練であったと感じている。そういった要素を十分に学生に伝えながら、ジェンダー・セクシュアリティに関する問題関心に引きつけてpGSSでの学びへと学生を導きサポートしていきたい。

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pGSSに関する詳細については、pGSSホームページをご覧下さい。
http://web.icu.ac.jp/gss/

CGS運営委員/国際基督教大学 上級准教授 生駒夏美
 
 2011年1月末、一橋大学でジェンダー社会科学研究センター主催によるワークショップ「大学における育児サポート」が開催された。妊娠中の院生や育児中の男性教員など多種多様な参加者80名以上が集まり、会場は切迫した問題意識と熱意で満ちた。育児サポートを展開する東京学芸大学(無認可保育所)・東北大学(同)、宇都宮大学(認可保育所)、新潟大学(シッター制度)から、各大学の事情や規模に応じた制度が報告され、会場からは実際的な質問や抵抗に屈せず成し遂げた方々への尊敬と羨望の声が上がった。
CGSでも2007年から大学側に育児支援の必要性を訴えているが、大学側は規模の小ささと恒常的なニーズの不在を理由の一つに導入に消極的である。待ったなしの育児に追われる当事者は大学に失望しつつ対応に追われる他なく、逼迫した事情は伝わりにくい。そんな中で近隣の一橋大学が育児支援に向けて動き出したことは、大変心強く喜ばしい。一方、多くの大学が育児支援を検討する中、ICUが遅れをとっていることに危機感も感じる。18歳人口が減少の一途を辿り、ICUでも年齢の高い学生や、海外からの学生/院生が今後増加することが予測され、育児世代も増えるだろう。国内外から教職員をリクルートするにも、子育て世代であれば育児支援の充実した職場を望むことは間違いない。そんな状況下で育児支援の有無は、大学競争力に多大な影響を与え存亡に関わる問題となる。今なら、ICUの特色を出した育児支援を打ち出すことで、社会へのアピールと競争力を増すことが可能だが、それにはすぐにも動き出す必要がある。
 日本の戦後社会において、育児や介護といったケアを家庭に押し付ける政策/企業運営がされ、それによって社会/企業はサラリーマン戦士をケアの負担から解放し、経済活動に従事させてきた。そのような男性中心モデルの社会は一橋大学の佐藤文香先生がワークショップで語ったように「人間誰しも人生の一時期、誰かのケアに依存して生きる時期がある」という当然のことが忘れられたバランスを欠く、ジェンダー不均衡かつ不平等な、しかもその点が不可視化された社会であった。
 しかし不況の中で女性の労働力が必要とされるに至り、その確保のために育児支援に乗り出す企業が増加しつつある。だが社会の大部分はまだ男性モデルからは脱却できず、結果として、女性たちの多くが労働力として社会に参加しつつ、ケアも背負う羽目になっている。
 2月14日付けの毎日新聞によると、日本人の「子どもを持ちたい」という欲求は世界的に見て極めて低く、子育ての負担感が日本女性に特に強いことがカーディフ大の調査で明らかになったという。男性同様に働き、かつ育児をほぼ一手に引き受けることは、多くの女性にとって過重な負担となり、子どもを持つことを躊躇わせる。バラマキの少子化対策も実施されたが、本質的解決に至る政策でないことはこの結果からも明白である。必要なのは単に経済的な支援ではない。子育ての大部分が女性個人に押し付けられ、「個人の問題」として公の議論の土壌に乗っていないことが問題なのだ。かつては大家族や強い地域の結びつきが存在し、妊娠・出産・育児・介護は「共同体の問題」として分担されていたが、核家族化し隣近所との交流も消失した現代社会にあって、一個人、一家庭では対処できない事態になっている。旧態依然の男性モデルから妊娠・出産・育児・介護を社会全体/共同体全体/企業ぐるみで支える新モデルに脱皮しなければ、この社会の未来は暗い。
社会の良心であるべき大学だが、現実には男性中心で、男性研究者の有償労働を女性の無償(あるいは低賃金)労働が支えるモデルから脱していない。それは教員の男女比率が7対3のICUにも言えることである。そんな中、育児支援を考える大学が出てきたことは、今後の社会のあり方の改善に結びつく一歩と言えるだろう。これまでのように労働や学びの場から育児が排除されるのではなく、育児が社会の大切な一部分として認識され援助されることを、将来の社会を担う学生たちに示すことは、重要な教育的意義を持つ。少子化は大学にとって大問題である。子育てに大きなストレスや負担を感じさせない環境作りを大学側が率先的に進めることは、ひいては少子化対策になる。ICUにはそのような教育的意義に富んだ、先進的なモデルをぜひ提示してもらいたい。
 ICUはICU教会に幼児園があるのだが、残念ながら常勤教職員が子どもを託せる場所としては機能していない。この状況を変化させ、幼児園の一部に保育施設の機能を持たせる可能性について大学側にはぜひ検討していただきたい。形態としては1)幼児園の機能はそのまま維持し、2)保育施設の部分は外部委託し、3)ICU関係者の入所を保証し、4)幼児園の授業に保育児もおけいこ式に適宜参加する、というのはどうだろうか。政治主導の幼保一体化が進まない中、保育と教育の分断に悩む親は多い。そんな中で独自の幼児教育を展開しているICU幼児園に併設の保育施設ができれば、すばらしい可能性となる。
 一方、上記のような保育施設の設立には時間も費用もかかるため、それまでの期間は以下のような小規模育児支援の方法が、最も現実的かつ実践的ではないだろうか。
 大学側に用意してもらいたいものは、育児できる静かな部屋を一部屋、ベビーベッドを2、3台と保育者が座れるソファ、水道設備、ポット、電子レンジなどがあればよい。晴れた日はキャンパスが保育場所となるので、それほど大きな部屋である必要はない。障がい者やマイノリティ支援にも共通するが、各建物におむつ替えのできる多目的トイレを設置することも重要だ。
 保育者としては保険加入した外部事業者や病児保育可能なNPOに法人契約をするのがよいだろう(希望的には学生/院生の利用者に対しては費用の一部補助が望ましい)。このような小さな保育室の場合は、恒常的な利用というよりはスポット利用で、保育所に連れて行けない事情のある時に、利用者側が自分でケアをアレンジする。普段は居住地近くで何らかの保育施設を利用している者には、この方法が最も現実的だ。また保育利用がないときでも、こういう場所があれば、授乳やおむつ替えに利用できる。利用者は事前登録制とすれば安全も保てるだろう。また新潟大学のように、外部の講習を受けた学生にシッター登録をしてもらい保育補助者として働いてもらうこともできるだろう。教育学や発達心理学を学ぶ学生にとってかけがえのない教育経験となるし、比較的年齢の高い幼児や学童の場合、学生シッターに少額アルバイトの形でケアをしてもらうことも可能だ。このシステムは新潟大学で既に機能しているということである。経済的に厳しい学生/院生のために、プロと学生シッターで利用料に傾斜をつけ、利用者側が選べるようにするとよいだろう。
 このシステムだと、キャンパス内に子どもが常にいて、学生が育児を間近で見、参加する機会を提供できる。育児やケアがすべての人にとって重要な、そして当たり前の営みであることを肌身に感じることは、学生たちの人生において大きな意味を持つだろう。ICUのような規模の大学であっても、特色のある育児支援が可能であるし、ICUはぜひ率先してそのような育児支援のモデル校となってもらいたいものである。

【付記:育児支援サービスを展開する大学の状況】
 参考のため、特色のある育児支援サービスを展開している首都圏の近隣大学の事例をいくつか紹介する。このような大学は年々増えており、ICUも乗り遅れずに加わってもらいたいものである。また、ICUと同じくリベラルアーツ教育を提供するアメリカの大学の状況も参考までに記した。(米国情報収集:サマンサ・ランダオ)

国内

日本女子大学:付属幼稚園に保育施設が併設、学内関係者(学生含む)にサービスを提供。
慶應義塾大学:日吉キャンパスに認可保育所(一時保育併設)を開設。外部も入所可。運営は外部業者(ベネッセ)。
武蔵野大学:直営の付属幼稚園が預かり保育を実施。
新潟大学:シッター制度を導入。
上智大学:教職員、学生、院生対象の託児施設設置。運営は外部業者(ポピンズコーポレーション)。利用料金の補助あり。
東京学芸大学:小金井キャンパスに外部委託(サクセスアカデミー)で保育施設開設。外部を含め、教職員、学生利用可。学生(学部・修士・博士・特別専攻科に所属する正規生)と、職員・学生(正規生以外)・地域住民の区分による利用料金傾斜式。
東京大学:本郷に認可外保育所を二カ所(学内関係者のみ入所可)と認可保育所(学外も入所可)を一カ所、駒場に認可外保育所(学内関係者のみ)と認証保育所(学外も入所可)をそれぞれ一カ所、白金キャンパス、柏キャンパスにそれぞれ一カ所ずつの認可外保育所を設置。五つの認可外保育所は大学直営で、実際の運営は外部委託(サクセスプロスタッフ、ポピンズコーポレーション)。
宇都宮大学:認可保育所を運営。外部も入所可。
早稲田大学:学外にも開かれた認証保育所を設置。運営は外部業者(ポピンズコーポレーション)。幼保一体型。

海外(ICUと同規模のリベラルアーツ校)

Allegheny College:キャンパス内に民間の保育施設あり。大学が場所を有償で貸与。
Dartmouth College:教職員のための幼児教育保育施設を運営。収入に応じた傾斜式授業料。育児支援情報を大学ホームページに掲載。
Rice University:教職員と学生のためのモンテッソーリ式幼児教育保育設備を運営。その他、炊事場のついた授乳室あり。外部保育施設にも大学関係者用スロットを確保。大学ホームページに学童保育など育児支援情報掲載。
Swarthmore College:近隣の保育施設への紹介システムあり。大学からの資金援助はなし。

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